今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会(第10回)議事録

1.日時

令和6年3月25日(月曜日)13時30分~16時00分

2.場所

WEB会議と対面による会議を組み合わせた方式

3.議題

  1. 情報活用能力、言語能力等の学習の基盤となる資質・能力について
  2. その他

4.議事録

【天笠座長】  それでは、ただいまから第10回今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会を開催いたします。皆様、大変御多忙中のところ、御参加いただきまして、誠にありがとうございます。
 本有識者検討会につきましては、報道関係者より、撮影及び録音の申出があった方について、これを許可しておりますので、御承知おきください。
 前回、第9回ですけれども、この会議では、国内の参考となる知見として、研究開発学校における取組の発表と意見交換をいただきました。本日は、「言語能力、情報活用能力等の学習の基盤となる資質・能力」をテーマにし、3名の先生方より御発表いただいた後、意見交換を行いたいと思っております。よろしくお願いいたします。
 発表者につきましては、事務局とも相談しまして、言語能力に関わる有識者として、慶應義塾大学環境情報学部教授でいらっしゃいます今井むつみ先生にお願いしております。また、文教大学教育学部発達教育課程教授でいらっしゃいます藤森裕治先生にお願いしております。このお二人から御発表をお願いしたいと思ってあります。
 なお、今井先生につきましては、本日、リアルタイムでの御参加がかなわなかったため、講義の内容を録画していただいております。事前に御送付いただいておりますので、動画を御覧いただく形とさせていただきます。
 また、もう一方になりますけども、情報活用能力につきましては、本有識者検討会の委員であります高橋委員より御発表をお願いしております。
 ということで、3名の先生に御発表をお願いいたしますけども、本日の流れにつきましては、まず今井先生から40分、続きまして、藤森先生から20分、それぞれ御発表いただいた後に、質疑応答の時間を10分ほど取らせていただきます。そして、その後、情報活用能力につきまして、高橋委員より20分で御発表いただいた後、残りの時間、意見交換という、こういう段取りで進めていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは、本日の議題に先立ちまして、事務局より本日の議題の流れに関しまして、説明を改めましてお願いいたします。
【石田教育課程企画室長】  失礼いたします。事務局でございます。まず議事次第を御覧いただければと思います。本日は、「言語能力、情報活用能力などの学習の基盤となる資質・能力について」を議題としまして、今井先生、藤森先生、高橋委員より御発表いただき、意見交換をお願いしたいと考えてございます。それぞれの御発表資料につきましては、資料2から資料5として配付してございますので御覧いただければと考えてございます。
 次に、本日の議題に関わりまして、事務局からの説明資料で御説明を申し上げたいと思います。資料1を御覧いただければと思います。2枚目をお願いします。本日は、言語能力、情報活用能力などの学習の基盤となる資質・能力について御議論いただくわけでございますけれども、こちらは、今、赤枠で示してございます、第4回会議でお示しいただいた課題の「教育課程全体の学びを通して、子供たちにどのような資質・能力の育成を目指すか」という点に関わるものでございます。
 次、お願いします。議論に先立ちまして、学習の基盤となる資質・能力につきまして、関連する現行学習指導要領の規定、並びに、それに先立つ中央教育審議会での御議論につきまして簡単に御紹介申し上げたいと思います。
 次お願いします。こちらが現行の学習指導要領の規定でございます。各学校においては、生徒の発達の段階を考慮し、言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力を育成していくことができるよう、各教科等の特殊性を生かし、教科等横断的な視点から教育課程の編成を図るものとする、との規定を置いているところでございます。
 次お願いします。このうち、本日のテーマの一つであります言語能力につきましては、中央教育審議会答申におきまして、今、御覧いただいておりますような形で、知識・技能、思考力・判断力・表現力等、学びに向かう力・人間性等の資質・能力の3つの柱で整理いただいてございます。知識・技能としましては、言葉の働きや役割に関する理解や、言葉の特徴やきまりに関する理解と使い分けなどを位置づけてございます。
 また、思考力・判断力・表現力等につきましては、テクスト(情報)を理解したり、文章や発話により表現したりするための力と位置づけ、創造的・論理的思考、感性・情緒、他者とのコミュニケーションの言語能力の3つの側面、考えの形成・深化という観点から整理をいただいてございます。
 次のスライドをお願いします。さらに、中央教育審議会では、こちらのスライドにございますように、言語能力が働く過程を整理していただいております。テクスト(情報)を理解するための力が、認識から思考へという過程の中で働くこと、また、文章や発話による表現するための力が、思考から表現へという過程の中で働くことをそれぞれ整理いただいてございます。こうした整理も踏まえながら、現行の学習指導要領の国語科の内容構成もなされているところでございます。
 次のスライド、お願いします。こちらは情報活用能力でございます。こちらも言語能力と同様に、資質・能力を3つの柱で整理いただいてございます。上段にございますとおり、情報活用能力は、従来は、情報活用の実践力、情報の科学的理解、情報社会に参画する態度の3観点に基づく8要素、いわゆる3観点8要素で示されてまいりましたけれども、中央教育審議会では、様々にある資質・能力について、共通の横串を通すと、こうした観点から、3つの柱で再整理をいただいたものでございます。
 本日は、時間の都合上、御説明は割愛しますけれども、学習指導要領総則の解説におけます学習の基盤となる資質・能力に関する記載についても参考資料としておつけしておりますので、適宜、議論の御参考としていただければと考えてございます。
 事務局からの説明は以上でございます。
【天笠座長】  どうもありがとうございました。
 それでは、毎回の御案内になりますけども、本有識者検討会は、現行の学習指導要領の実施状況を検証する中で、今後の教育課程、学習指導、学習評価等の在り方について検討する際に考えられる論点を整理し、まとめることをその役割としているということを改めて申し上げさせていただきます。
 したがいまして、今回の御発表を踏まえた意見交換も、有識者検討会としての考えを論点としてまとめる形での運営を行いたいと思いますので、御理解、御協力のほどよろしくお願いいたします。
 それでは、本日の議題に入ります。まず、私から簡単に、今井先生と藤森先生の略歴について御紹介させていただいた後、お二人の先生方よりお話を頂戴したいと思います。
 まず、お一人目ですけども、今井むつみ先生は、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会や言語能力の向上に関する特別チーム委員として、前回の学習指導要領改訂に携わられました。御専門分野は、認知・言語発達心理学、言語心理学でございます。
 続きまして、藤森裕治先生は、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会国語ワーキンググループ委員として、前回の学習指導要領改訂に携わられました。御専門は、国語科教育学、幼児教育学、そして、日本民俗学であります。
 それでは、これから今井むつみ先生の御発表動画をおよそ40分、流させていただきます。ということで、事前に資料3を御提出いただいておりますので、これを基にしながら、これからおよそ40分前後ということで動画を流しますので、よろしくお願いいたします。
【今井氏】  皆様、こんにちは。慶應義塾大学の今井むつみでございます。今日は大変貴重な機会をいただきまして、ありがとうございます。それにもかかわらず、所用のために、そちらに伺うことができず、対面でお話しできないことをお許しください。
 時間も限られておりますので、早速本題に入らせていただきます。今日は、「生成AIの時代の言語能力、読解力とその基盤となる資質能力」というタイトルでお話しさせていただきます。
 今、ChatGPTをはじめとした生成AIが世間を席巻していまして、私自身も、ちょうど公開されてから1年数か月たちまして、公開当初から、研究室の学生たちと興味を持って、活用とまではいかないかもしれないですが、使って遊んでみました。やっぱり一番びっくりするのは、翻訳能力です。私は、自分の著作、「ことばと思考」という著作の冒頭をフィードして翻訳させてみたのですが、特にすばらしい翻訳文という感じはしないですけれども、文句はつけられないという感じで、例えば大学入試の英作文だったら満点なのかなという、そういうレベルのを戻してきます。
 私は、随分世間では、ChatGPTを使って、それを丸写ししてくる学生がいるのではないかという、そういう懸念がありますが、私は当初から、ChatGPTを使って、ChatGPTに答えさせ、それを自分の視点で批判してくださいという課題をよく出しています。
 皆様、学びについての専門家でいらっしゃるので、概念変化という言葉は御存知だと思うのですが、認知学習論という、私が担当する授業で、概念変化について扱ったときに、このような「科学の発見をもたらす概念変化と子供の概念変化の共通性と違いについて教えてください」という課題を出したんです。そのときに、私がうっかりタイプミスをしてしまって、「共通生徒違い」と表示されてしまいました。それに対して、学生がChatGPTに答えさせたところ、この誤りのまま、課題をフィードしても、ChatGPTはこの「生徒」をちゃんと読み替えて、「共通性と違い」と読み替えて、答えを出してきたということで、それがすごく、その学生も感動したと言っています。
 そのように、あるところではこちらの誤りをちゃんと見抜いて、修正して、その上で答えるというような、この学生は聞き手の意図を理解してという、そういうことを書いて、感動を伝えてくれたわけです。実際書いてある中身は非常に流暢でした。しかし、よくよく、流暢というのは、実は人間は流暢性バイアスというバイアスがありまして、流暢に言語を発しているのを聞くと、あたかも、非常にそれが正しいように聞こえ、説得されてしまうという、そういうバイアスがあって、流暢性というのは、実は相手を説得するための一つの武器であるのですが、そういう意味で、ChatGPTは非常に流暢に文を生成します。
 しかし、ひとたび、専門家の、一応私はこういう概念変化は自分の専門分野の分野ですので、そういう目から見てみますと、あまり間違ってはいないけど、意味のないことを書いていたり、あるいは明らかに間違っていることを書いているんです。そういうことに対して、今、私たちは、このChatGPTと教育をどういうふうにつじつまを合わせるというか、整合性を取るかというような、そういうすごく大事なイシューに直面していると思います。
 その中で、必ずしも皆さん、ChatGPTについて、すごいから絶対使うべきだという声と、非常に懸念を示す声とあって、でも、その中でやっぱり、ChatGPTはどういう仕組みで動いているのか、なぜ間違うのか、あるいはChatGPTを教育に使うのはいいのか悪いのか、そういうようなことをもう少し認知の面から考えた上で議論が進んでほしいなと思うことも多々ございます。
 そういう意味で、今日は少しその辺りをお話ししたいと思うのですが、まずChatGPTは意味を理解しているかということについて少し考察してみたいと思います。
 先ほど、私が図らずも誤字、タイプミスをして、「共通性と違い」というのを「生徒」という単語が間に入ってしまった。それに対して、ChatGPTはちゃんと「共通性と違い」と読み替えて、答えを書いていて、その学生は、意図も分かるんだと。書き手の、課題の出し手の意図も分かるんだと理解して、そういうふうに感動していたわけですが、それは本当なんでしょうか。
 では、ここで改めて、意味を理解するということがどういうことなのかということを考えてみたいんですね。例えば、イチゴ、リンゴのような、非常に日常的で、私たちはあえて意味も考えないほど当たり前の単語、これを理解するとはどういうことなのかということを考えてみたいと思うのですが、辞書的には、例えば、「甘くてすっぱい」とか、「ミルクと合う」とか、そういうような語釈があるかもしれません。あるいは、百科辞典的にそういう知識を私たちは持っていると思うんです。
 その知識を生成AIの学習材料に入れて、AIがそれを返すことができたら、AIは、言葉の意味を理解したことになるんでしょうか。これに関しては、もうChatGPTなどの生成AIが発表されるずっと以前、1990年代ですね。90年から、AIの分野、あるいは認知科学の分野では、記号接地問題という問題として、非常に議論されてきたものなんですね。基本的に、この90年代のAIというのは、シンボルを操作する、そういうAIシステムが主流だったわけですが、ちょうどその頃、今の主流のニューラルネットワークのAIのお父さんですね。その祖先になるような、parallel distributed processing、PDPと呼ばれる、そういうシステムが発表、ルーメルハートとマクレランドによって発表されたわけです。
 それが非常に広く受け入れられ、今のニューラルネット、神経回路を模したAIシステムにつながっていて、そこからChatGPTのような生成AIが生まれているわけですが、記号を使った記号ベースのAIにしろ、あるいはニューラルネットのAIにしろ、いずれにしても、一つ一つの記号の意味、単語の意味というのが、いわゆる人がするような身体や経験、そういうものに接地していないという、そこにおいては変わりありません。結局、どういうことをしているのかというと、ある記号の意味というのは、別の記号の意味によって説明されるわけです。
 先ほどのイチゴと言ったらば、「甘くてすっぱい果物」、「ミルクと合う」のように、言葉では説明できるけれども、その言葉を発しているAIは、決してイチゴの香りとか、口に含んだときの味とか食感とか、そういうものを経験してはいないわけです。記号から記号へ移し替えるだけのAIというのは、この記号接地問題という言葉を提唱したスティーブン・ハルナッドという認知科学者です。ハルナッドは、AIの言語は決して地面に降りることができないメリーゴーランドでずっと漂流し続けているようなものだと言いました。
 ChatGPTの言語学習を考えると、非常に興味深いのは、記号を決して身体や感覚、経験に単語を結びつけることなく、記号から記号へのメリーゴーランドの状態でいるにもかかわらず見事に翻訳して、返してくるということなんですね。しかし、だからといって、この生成AIは、単語の意味を理解しているわけではないですし、理解する気もないわけですね。
 あまり一般の人たち、特に生徒たちが多分知らないのは、このChatGPTは魔法のように、コンピューターが全部自分で学習して生成するわけではなく、ChatGPTの学習に非常に重要な役割を人間が担っているということです。人間が手本を示して、人間がフィードする手本、文を示し、これを学習しなさいと言い、そして、誤った文を生成したら違うという、あるいは、ChatGPTが生成した、たくさんの文に対して点数をつけて、これはいい文、これは駄目と点数をつけて、評価している。それは非常に重要な役割を果たしているということなんです。
 そこから逆に考えると、人間が手本をつくっているから、手本以上のものは出てこないということ。これは初期にChatGPTの開発に関わったAIの研究者が自分で言っていて、ChatGPTの限界というのを指摘しているわけです。手本以上のものは出てこない。非常に流暢で、的確に一見見えるけれども、でも、手本以上のものは出てこない。そして、非常にクリティカルなところで間違えるということがわかっています。
 では、これをすごいと思うか。たしかにすごいです。でも、AIが絶対にしない、できないようなことを人間の子供というのは日常的にやっているんですね。例えば、一度聞いただけで、おばあさんがお客様にお茶を出しながら、「粗茶ですよ」というのを聞いた3歳児は、「なぜ『そちゃ』と言うの?」と聞いて、「お客様には『そ』をつけるのよ」と、おばあさんはそのぐらいしか答えを返せないわけですけれども、そうすると、早速、自分の猫をお客さんに見せながら「ソネコです」と言う。これって、たった1回の経験から、すぐに新しい状況に使うというものです。
 これは人間の子供の言語学習では欠かせない過剰般化という現象です。この一般化というのは、AIもしなくはないですが、そこに至るにはものすごくたくさんの例が必要なんです。例を学習することが必要。でも、人間の子供は1回聞いただけで、そういうことをしてしまうということですね。
 それから、もう一つ面白いなと思った例があります。これは時間もないので、お読みいただければと思うのですが、子供が絵を見せてきて、これは「にしょく」で描いたから、次は「さんしょく」で描くんだと言ってきて、大人は、「何で3色なの? もっと色を使ったらいいじゃない」と。「さんしょく」というのはもちろん色のことだと思ったんですね。そうしたら、その子は、そうではなくて、「何言ってるの? 動物には、肉食と草食、雑食、3つがあるでしょう。今まで肉食、草食を描いたんだから、今度は雑食を描くんだよ」というふうに、これは何をしたかというと、ただの間違いではなくて、この子はものすごい分析をしているわけですね。何かの数字が来たら、次にその数字の種類を表す言葉がないといけない。言葉があるというのは知っていた。でも、何を使うか分からない。そのときに、動物って、どこか別の、全然別の文脈で、肉食、草食、雑食というのがあるんだよというのを、絵本に描いてあったのか、大人に聞いたのか。そうしたらば、もうそれだけで、パッとこのときに「さんしょく」という助数詞をつくってしまうという、そういうことですね。
 これは言語学的に言うと、ある要素を分析して、それを結合するという、言語を運用する人間が言語を運用して、生成して、運用する上で、最も大事な基盤となる能力と言われているわけですが、3歳にして、その子は、日常の中で、さらっとそういうことをしているわけです。
 こういうことから考えると、人間と生成AIの決定的な違いというのは、AIは、いわゆる統計推論はする。だけれども、アブダクションをしない。だから、新たな知識を創造しないということだと言えると思います。人間は逆に、常にアブダクションをしています。先生方に、アブダクションは何かというお話をするのは釈迦に説法なので、ここでは割愛させていただきますが、アブダクションというのは、基本的には間違いを犯す可能性がある、そういう正しくない推論であることも多いわけです。しかし、一方で、人間が知識を拡張する、あるいは、仮説をつくって、科学を進歩させるというのは、それはアブダクション的な推論によると言われています。
 人間は実際、アブダクションに、特に科学におけるアブダクションに欠かせないのは、因果を見ようとする、見極めようとする、いわゆるディスポジション、そういうふうにせずにはいられないような、そういう傾向だと思います。人間は、ほんのちょっとしたことでも、例えば友達が待ち合わせた時間に来ないというような状況などで、その原因についていろいろなことを考えますね。仕事が忙しいのかな、電車が遅れているのかな、事故に遭ったのでは、あるいは、この間、私が言ったことに怒っているから来ないのかなと心配したり、いろいろあります。それは単に、もうランダムにいろいろと原因を羅列するのではなく、その友人の性質を知った上で、この人はいつもは遅れない、非常にきちょうめんな人なんだ、それでも来ないというのは何かすごい緊急事態が発生したのではないかと、そういうふうに知識を使って考える。そういうようなことをしていて、それは科学における仮説形成に非常に重要な役割を果たしているとも言えます。
 ただし、これをもう一歩踏み込んで考えると、先ほども、人が来ない、友人が来ない理由というのは幾らでも考えられる。科学もある現象があったときに、その原因を考えるのは、幾らでもその原因を考えられるわけですね。でも、それを一つ一つ、1,000も2,000もあり得る原因を潰していって、1個1個実験して確かめるということはできません。ですから、科学者は何をしているかというと、領域の知識ですね。それに関わる背景、知識をベースにして、ある種の直観があって、非常に絞り込んだ上で、こうなのではないかという仮説をつくり、その上で実験を組み立てて、実験の結果から、結論を導き出すと。この部分は演繹ですが、演繹だけでは、仮説はできない。アブダクションなしで演繹しかしないと、新しい知識、仮説は生まれ得ないわけですね。この直観というのが、科学を進めていく上でも、あるいはどんな分野でも直観というのは非常に重要です。
 しかも、その直観というのは、二方向ありまして、コイントスのように適当に考える直観もありますが、実は熟達者の直観というのは全然そういう適当なコイントスの直観ではなく、非常に正確で、非常に的を射た、そういう仮説、可能性というのを短時間に、無意識のうちに想起することができます。そういうところが、人間が生成AIとすごく違うところなんですね。でも、この熟達者の直観というのを誰もが持てるわけではありません。この熟達者の直観というのは、何か科学とか、あるいはアートとか、そういうような専門分野の直観に限られたものではないんですね。
 この直観が大事なのは、例えば将棋や囲碁などでも言えます。将棋や囲碁がよく例に挙げられるわけですが、そういう直観というのは、熟達者の特徴なわけですが、その直観が全然持てないことが人間でもよくあります。直観が働かないとどうなるのかということを私は知りたくて、この「たつじんテスト」というテストを広島県教育委員会と、あと専門家のチームの先生方と一緒につくりました。単元の学びの基盤としての子供の言葉や数の概念、問題解決に必要な資質としての認知能力がどういうものなのかということを理解し、子供がそれらを十分に持っているのかということを理解するためです。これは「ことばのたつじん」と「かずとかたちをかんがえるたつじん」という2つの柱があるのですが、テストを小2から小5までの多くの小学生に実施したら、やればやるほど驚きが広がるという、そういう状況でした。その驚きは、私たち研究者だけではなく、現場の先生や教育委員会の方々も本当に驚き、衝撃を受けたわけです。
 例えば、私がよく例に出すのは、2分の1と3分の1、どっちが大きいかという問題ですね。これに対して、5年生がどのくらいできているかというと、ちょうど半分しかできていなかった。しかも、子供全体ですね。この調査に参加してくれた子供をこのテストの合計点で3つの層に分けてみました。そこの下位層の子供たちと上位層の子供たちでは、本当に大きな隔たりがあって、下位層の子供は、3分の1が大きいと答える子のほうがずっと多かった。4分の3の子供たちは3分の1が大きいと答えていたということが分かりました。そして、この誤解、このつまずきというのは、中学生になったら改善されるのでしょうか。『算数文章題が解けない子どもたち』という本を岩波書店で出版してから、中学校の先生方からの問合せが多かったので、いやいや、これは小学生用で、小学2年生でもできるように考えたものですから、中学生には向きませんと申し上げたところ、それでもいいから使いたいという声が非常に多かったので、急遽、中学生版をつくってみました。こちらの結果はまだ未公表なのですが、例えば、3分の1と3分の1の、答えは幾つですかを聞くかわりに、それに近い数はどれですかというような聞き方をしたんです。すると、この数字を御覧になっていただきたいんですが、下位層の正答率、何と7.8%でした。上位層でも65%にすぎません。一体これはどうなっているのか。3分の1足す3分の1が、計算しなさいと言ったら3分の2だということは、みんなできると思うんですね。でも、近い数を答えなさいと言うと、下位層は6を選んでいました。上位層は、どちらかというと6は選ばず1を選んでいた。要するに、近いという言葉を何か四捨五入する。四捨五入して、どの整数に近いかと解釈していたんだと思います。だから、上位層もそういう誤解がないわけではない。だけど、下位層は、そもそも分数というものが全く理解できていないということが分かってきました。
 中位層も全然できていると言える状況ではないので、いわゆる3分割したときに、3分の2ですね。子供の、普通の一般中学の2年生で、3分の2の子供たちが分数の意味が分かっていない。分数の計算ができても、意味が分かっていないのではないかというような、そういう懸念を起こさせる結果が見えてきたわけです。
 こちら、2足す12分の13の問題も正答率は非常に低い。上位層はすぐ3だということが分かるのですが、中位層、下位層は、12分の13が1に近い数だという直観が全くない。中学になる前に、もう小学校で割合、何割とかパーセントとか、そういう言葉は学習しているはずですし、常に日常生活で使っているはず、何割引というのは毎日聞きますよね。お買物に行けば、必ず何割引というのがあります。でも、中学2年生に、2%と2割、どっちが大きいですか、どっちが当たりやすいですか、どっちが大きいですかみたいなことを聞いたときに、それが分からない子供が半分いると。これは56.9%というのはほぼ2択の中の56.9%なので、それこそさっきのコイントスと同じチャンスのレベルになってしまっているわけですよね。このレベルで分数、あるいは非常に基本的な何割、何%という意味が分かっていないということです。
 このように数が記号接地できていない子供たちというのは、要するに、概念が数学で求められる抽象的な記号表現の仕方というのが全く具体的な生活経験やイメージと結びついていないので、お手上げ状態になっているということなんですね。
 こういう問題をChatGPTにさせると、どうなるでしょうか。こちらが答えです。同じように、2分の1と3分の1、どっちが大きいですか。これは、実はそのときによって違うんですね。この回答、ChatGPT3.5のときなので、今は2分の1と答えられると思います。でも、ここの説明をお読みいただきたいんですが、分数で表すと、こう表記するみたいなこと、やっぱりここでも意味がないことを書いています。その後、「分母が小さいと分数の値は大きくなる」と書いています。ここまでは合っているんですね。でも、結論は、「3分の1の方が大きい」というように、要するに、意味を考えていなくて、次に出てくる単語は何かというのを確率的に出しているだけなので、こういう全く矛盾する、意味が通らないことをしれっと流暢に書くというのがChatGPTなわけです。
 同じようなことが、6%はどれですかという問いに対しても、「6%は、100分の6と表現できます。」と書いています。ここまでは合っているんです。でも、続いて「6%は6割の100分の1となります」というように、こういううそを返してくるのです。生徒にどう対処したらいいのかということを、それも私たちの研究室で一生懸命、学生たちと考えているのですが、今日は、この話を始めると全然終わらないので、こちらのほうのURLに、それを紹介しているユーチューブの動画のリンクを書いておきましたので、もしよろしければ、こちらを御覧いただけると非常にありがたく存じます。やっぱり最も大事なことは記号接地ということで、一つ一つの言葉を世界に、自分の身体に接地させ、経験に紐つけることが大事です。でも実は紐つけただけでは駄目で、そこから自分で推論の連鎖で、間違いをしてもそれを修正していくという、そういう過程を経て、知識を拡張していくこと。それが抽象的な概念を理解するためにすごく大事です。すごく大事というよりはそれが欠かせない必須のもので、その私たちの直観というのはそこから生まれるということなんですね。
 あと残りの時間、40分いただいていますので、今日はせっかく言語能力についての会合だということをお聞きしておりますので、読みについても少しお話しできたらと思っております。
 ずっと子供は、小学生も中学生も高校生も大学生も読めない人がたくさんいる。そういう指摘はあります。数年前に新井紀子先生が、『AI vs 教科書が読めない子どもたち』というような本を上梓されて、ベストセラーになって、非常に大きな話題になりました。ただ、読解力がない理由というのは、こういうテキストが読めないんだよというだけでは、あまり指導の手立て、これからどうするかということにつながっていかないんですね。
 読解力がない理由というのは、一つではありません。そういう意味で、「読解力がない」というだけでは、あまり手立てにも、役に立たないし、認知科学としても、ちょっと空虚な感じがします。その中で、ここに挙げたような、まず大きくは、文の中の単語が分からない。あるいは、知っている単語でも、文脈に合わせて意味が解釈できない。そういうところが読めない理由のすごく大きな一つになっているように思います。
 それからあと、視点が取れない。要するに、文章を読むということが、書き手、自分の視点ではなくて、書き手の視点に立って、書き手がどういう視点で、どういう意図で、何を言いたいのかということを酌み取るわけで、それは非常に抽象的で複雑な行為なのですが、でも、そもそもそれ以前に他者の視点を取るということが非常に困難であると。もう一つは、行間を埋められないということ、そういうことも非常に顕著に見られました。
 語彙が分かっていないというのは、例えば、算数を学ぶ上で非常に大事な言葉として、「ひとしい」とか「ひかくする」とか、こういう基本的な動詞があります。この動詞自体、非常に抽象的な意味の動詞ですが、でも――形容詞、「ひとしい」は形容詞ですかね。すみません。そういう形容詞とか動詞に対して、それでも、このくらいの言葉が分からないと、算数は学べないと思うんですね。それに関して、小学校低学年の子供は、知らないというよりは、知っているんだけど、誤解をしている。そういうことがよく見られました。
 あと、単位もすごくあやふやで、何分という分とか時間とか、これですね。もちろん「何分って知ってる?」、「時間って知ってる?」と言ったら、1分は60秒、1時間は60分と答えられる。でも、こういう問題に対して、5時間10分を510分に直してしまう。そういうようなことをしているわけですね。
 でも、面白いことに、引き算の結果、出た答えが260だったら、これを260分と直して、それは3時間と書いている。要するに、単位の変換の仕方が非常にぐらついていて、単位という概念自体がないのではないか。ないというか、非常に弱いのではないかと考えられます。そもそも小学校の1年生に対してこういうことを聞いたわけですが、1年生は時間と時刻を混同している、そういうことも見て取れました。結局、教科の単元の学びの前提となっていて、教える方が、学び手が知っていて当然と考えている言葉や概念が、実際にはやっぱり知られていないというか、誤解されていることがあって、そうすると、子供は分からないということがどんどん積み上がっていくわけですね。
 もう一つ、言葉を知っていれば、問題解決に使えるのかということに対して、そうではないという答えを私たちに突きつけているが、そういう結果が分かりました。これは空間の言葉ですが、前とか後ろとか右とか左とか、こういう言葉は視点に依存するわけですね。その視点というのが、自分の右手は分かる。だから、「右を知ってる?」と言ったら、元気よく「知ってるよ」と答える。でも、こういう地図の中で、こういう前とか右とか、そういう言葉を使って宝物を探しましょうと言ったときに、2年生では、自分と同じ視点の場合ですが、上位でもう全然できていません。だから、その言葉を知っていても、それを問題解決に使えるというのは、非常に違うことだということがここからも分かりますが、これが反対視点になると、もう2年生では、上位でもうお手上げです、3年生になると、反対視点、上位の子は何とかついてこられています。でも、中位以下の子はやっぱりできません。5年生、4年生。4年生でどうかというと、これも下位の子は、実は2年生の下位の子、3年生の下位の子、ほとんど変わっていないんですね。上位だけが上がっていく、正答率が上がっていく。視点が変わるということ、違う視点を持って、その言葉を使って問題を解決するということは非常に難しいということです。実際、この「空間ことば」という大問は、算数文章題を解く力を予測するのに、ほかの数の概念の基本概念の理解を聞いたり、語彙の数を聞いたり、語彙の広さを聞いたり、そういう問題よりもさらに高かったのです。このことによって、単に実は言葉を知っているだけではなくて、柔軟な視点を取って、言葉を使うという能力が非常に学力に関係しているということが分かりました。
 これは分数や割合の概念とか、多義の概念、多義語の理解、そういうものにも非常に深く関わってきますし、それ以上に、テキストの筆者の意図や視点を理解することにも必要になってくるわけです。ここはもう時間もないので飛ばせていただきます。後で資料をお読みいただければと思います。
 もう一つは、読むのが苦手な子供は、行間も埋められないんですね。私は、小学生の文章題の回答を見て、非常に衝撃を受けたのは、例えば、お菓子が増量していますと。増量。250グラムのお菓子を30%増量したら何グラムになりますかと言ったときに、掛け算するということは分かる。でも、ここに書かれていない1という、1.3にすることが本当に難しくて、この子は、0.3掛けて、それで、75だと減っちゃうから、しようがないから、もう1桁足して、1の位にゼロを足して、750グラムにしてみたと。
 それから、次の2番目の子は、掛け算にするということは分かっていたんだけど、0.3を掛けると減ってしまうから割り算にするというようなことをわざわざ書いてくれているんですね。こういう行間を埋められないというのも、読めない、非常に大きな理由になっています。この行間を埋められない現象は、実はやはり複合的な、複雑な原因が絡まっていて、一つには、この子たちは、算数が問題解決をするというような、そういう意識がない。エピステモロジーがないということ。それから、やはりスキーマがない。これも複数の、レベルが違うスキーマがありまして、やはりこういう子供たちは、低位どころか、中位の子供でも、数に対しての基本的なスキーマがない。分数ってどういう数なのか、少数と分数はどういう関係があるのか。そういうことが本当に腑に落ちていない。あるいは掛け算、割り算という計算もできても、計算の意味が分かっていない。それから、そもそも文章題について、例えば問題にある全ての数を出てくる順番どおりに使わなくてはいけない。こういうことは教わるわけはないんですが、やっぱりこれは悪いアブダクションの例で、多分、経験からの過剰般化でこういうスキーマをつくり上げているということなのだと思います。
 これを総括して考えると、「読む」ということ。それは自分の視点から離れて、他者の視点で世界を捉えること。「読む」ことは自分の知識を駆使して著者の意図や言いたいことを行間を埋めながら推論すること。だから、「読む」ことは思考することなんだというような、これに尽きると思うんですね。
 では、その良い読み手になるための条件は何でしょうか。まず語彙は必要です。でも、語彙を表面的に知っているだけではなくて、柔軟な視点を持って、文脈に合わせる。他者の視点を取って、語彙を、言葉を文脈で上手に変化させることができる、文脈に合わせる。そういうことをしながら、文脈も酌み取っていくし、理解していくし、語彙自体も修正していくというような、そういうことが良い読み手になるためには絶対に必要で、それだけではなくて、スキーマを想起して、行間を埋めていく。それから、文章を自分の知識体系に関係づけて、メタ認知によって意味の一貫性を評価する。そういう中で、文章の意味を自分の中で創り出すことができる。そういうような思考過程が必要になってくるわけで、そうすると、読むということ、読解することと、学ぶことというのはもう境界がないと言うことが言えます。だから、一番良い読み手になるには、記号接地とアブダクションによる知識の構築、修正という、この過程が欠かせないと思うんですね。
 こういうことを踏まえて、学習指導要領の改訂に向けて、皆様、先生方に、あるいは文部科学省の職員の方々にお願いしたいことというのは、まず、学ぶ単元、内容が生活経験にどう結びつくのかということを子供が考えるようになる。あるいは学ぶ単元、内容が同じ教科の別の単元の内容や別の教科で学んだこととどう関連しているのかということを自分で考える。学び手が自分で考えるようになる。それから学んだことを、様々な状況を文脈で使う練習もする。これは単なるドリルではなくて、様々な状況、文脈で、数をこなす。しかも、一遍にやるのではなくて、いろいろな単元、別の単元、別の教科で習ったことを、学習したことをまた取り出して練習する、そういうことをすることによって、知識を身体化する、記号を接地した上で身体化する、そういうことがすごく大事なのではないかなと考えております。
 これで私のお話は終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。
【天笠座長】  どうもありがとうございました。
 いつもの進め方でいくと、ここで質疑応答に入らせていただくわけですけども、御承知のとおり、今、動画を流していただきましたので、今日は、次の発表、藤森先生にお願いしておりますけども、藤森先生の御発表をいただいた後、質問、質疑応答という、そういうことに少し時間を取らせていただいて、そして、その後、高橋先生の御発表、その上で、あと残りの時間を、3人の発表全体をという形で進めていきたいと思います。
 それでは、続きまして、藤森先生より既に資料4を提出いただいております。藤森先生に御発表をお願いしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
【藤森氏】  皆さん、こんにちは。文教大学教育学部の藤森裕治でございます。こういう場にお招きいただきまして、大変光栄でございます。今、今井先生のお話を伺っている中で、共感するところが多うございました。私は、高校の国語の教師を15年勤めた後、小中学校の教員養成として信州大学に20年ほど勤め、今は幼児教育にかかわっております。
 お手元に文書の資料として、本編の資料と、それから、補足資料がございます。いただきました時間が20分ですので、これから5つの話題についてお話をしたいと思うんですけれども、5つ目の話がやや規模が大きくて、この時間内で十分に御説明を尽くすことができませんので、学術雑誌に私が書いた文章を補足資料として準備いたしましたので、こちらをお読みいただければと存じます。
 主にこの後、(資料の)1番から4番にかけて、実はこれらは事務方から過日、質問を受けた内容に対して、私が覚書のように答えたものでございますけれども、これに沿って私見と申しますか、国語教育に携わった者としての所感を申し上げたいと思います。
 まず1点目、「2030年代を見据えて、学習指導要領改訂時からの言語能力をとりまく環境の変化をどう捉えるか」。これはもう複雑多岐な問題で、様々な環境の変化がございますけれども、大きな課題として、ここに挙げた3つの論点があるのではないかと感じております。
 1点目は、ソーシャルネットワークシステムにおける誹謗中傷、あるいは学校内外でのネットいじめなどや匿名性に乗じて、様々な行為が問題化している現状です。これが収まる気配がないということが大きな課題と思っております。一般にそういうことをする人は、書かれた人がどんな思いをするのかを想像する能力がないんだと言われがちですけど、私は逆だと思っていて、これを読んだらどれだけ本人が傷つくかということについては大変敏感に想像できるはずなんです。
 ただ、それがどのような残念な結果というか、悲惨な結果を導くかについてまで想像を広げる力、それが自分にどういうふうに跳ね返ってくるか、その責任の所在まで想像する力がないと感じております。いずれにしても、想像力の欠如という問題は、これからどうしても克服していかなければならない課題だと思っております。
 2点目は、今井先生から詳細にお話しいただいた、いわゆる生成AIをめぐる問題です。ある専門家からうかがった話によると、今、生成AIにかかる研究は論文化している余裕がないんだそうです。論文化して、査読を通って、公にそれが出るまでに、驚くべきスピードで生成AIの革新技術が進んでしまっているからなのだそうです。そうしますと、現状の生成AIの様子を見てあれこれ言っても、近い将来にあてはまらなくなる部分があるかもしれません。ただ、今井先生の説明にございましたように、直観的な対応、学習者自身が新しいものを自分の中で直観したり、自分の中で問いを立てたりしていくという、こういうクリエーティブな部分、本人の生活とか、あるいは身体に接続している部分。これらは今井先生のおっしゃっている記号接地の問題ともつながると思うんですけれども、そういった要素と生成AIとは、やはり次元を異にする。生成AIのプラスの部分を効果的に教育実践場面の中に取り入れることの意義は大いにあるにせよ、課題は大きいと思っています。
 さて、3つ目は、地方の人口減少にかかわる問題です。私の実家は地方の山あいの村にあるんですけれども、空き家がものすごい数で増えているんですね。それによって、地域の年中行事や、講とか寄り合いのような自治組織が崩壊の危機に瀕しています。やりたくても成り手がいないんです。特に新型コロナ感染症の影響で、人が集まる様々な行事がなくなって、今、復活しているものもありますけれども、かなり多くのものが縮小化したり、あるいはなくなってしまったりしています。子供、特に初等教育段階の子供にとって、地域の教育力は極めて重要だと思うんですけれども、それがうまく機能していない。いわゆる僻地ではいろいろなコミュニティーとのつながりが深いように言われますが、そもそもおじいちゃん、おばあちゃんいない。「伝統的な言語文化」の学びの重要性については、平成20年改訂の学習指導要領以来、ずっと謳われつづけていますが、今後どうなっていくのかという問題を感じます。
 以上の3つの論点に合わせ、今後どういうことを検討していかなければならないか。先ほど事務方から出された資料「言語能力の向上に関する特別チームの取りまとめ」の中にありました諸項目に合わせてみますと、大きく3つの課題が私の中で自覚されております。
まず1つ目が、「視座転換、批判的思考・自己制御などを支える想像力」です。相手の心の想像ですとか、自分の感情のコントロール、これらを実際に遂行していくことのできる想像力としての言語能力についての見極めと、それから、それを育成するための手立てが求められる。もちろん今までもずっとこれは探索されているんですけれども。
 2つ目は、自ら「問い」を立てたり、予測不可能な事態に直観的に対処したりするために「自ら問いを立て新しい状況を構造化していく創造力」です。こちらの創造力はクリエイトのほうの創造力であります。
 そして、3つ目として「文化の継承者・創造者としての自覚を支える態度」です、数ある課題の中で、特に重要なものを国語教育に携わる者として挙げろというのであれば、以上の3つであると考えております。もとよりこれら3つの「言語能力」がかかわる場は、教科としての国語科にとどまることではありません。そもそも、今の資質・能力の学力観は、子供たちの実生活や実社会とのつながりの中で、その子の人間形成の糧となる資質・能力であって初めに教材ありき、教科ありきという発想を改める必要があると私は理解しておりますので、そういう意味でも、これらは重要な論点と思っております。
 そこで、これらの「言語能力」を育成する観点から、国語科のみならず、関連する領域、他教科等で、横断的に検討するべき点は何なのかということを考えております。過去8年間ほど、私は、科学研究費の基盤研究(B)の助成をいただきまして、「汎用的な言語能力」とは何なのかということを追求してまいりました。その中で一つのキーワードとして、「述語的統合」という思考的態度がこれからの想像力を育成する上で非常に重要だという知見を得るに至りました。述語的統合というのは、中村雄二郎が1990年代に発信した一つの哲学的な思考です。例えば、2ページの下のところに用例があるんですが、これは新美南吉の『ごんぎつね』をもとにした述語的統合の思考です。
S1:「ごん」はひとりぼっちだ。
S2:「兵十」はひとりぼっちだ。
S3:「兵十」は「ごん」だ。
ここにある3つの文を見ますと、「ひとりぼっち」という述語部分のところが共通するところから敷衍されて、「兵十」は「ごん」だという帰結が導かれています。これは形式論理学だと、媒概念不周延の誤謬といって、一種の詭弁です。しかし、人間社会では、これを一つのメタファ、比喩として、あるいは象徴として、受け入れることができます。つまり、「兵十」の生きざまと「ごん」の生きざま、ここには相つながるものがあるんだという理解です。それにもかかわらず、両者の間には人間対動物という悲しい断絶があって、ついに2人が結びつくことはなく、悲劇で終わってしまう。それゆえ、あの物語の悲しい美しさというのを我々は感じることができるはずなんですね。
 すなわち、人間社会の論理構成というのは、形式論理でばっさり切れる部分もないわけではないんですけども、むしろこのように述語部分の共通性で物が見えてくるということが多いのです。
 こんなことがありました。ちょうどコロナが蔓延し始めた頃、私は8か月にわたって、対面で授業を展開している長野県内のある小学校で、フィールド調査をしていました。ある日、「お友達の悩み事相談会を開こう」という道徳の授業がありました。「悩み事相談」のときにどんなことが大事だろうかとみんなで議論しているうちに、ある男の子が、「先生、これ(悩み事相談という活動)、算数の掛け算と似てる」と言うんです。先生が「どういうこと?」と聞いたら、彼はこう答えました。
掛け算というのは、掛ける数と掛けられる数がある。掛ける数というのはいろいろな形に変化するけども、掛けられる数というのは変わってはいけない。3掛ける5という場合、5は6になったりもするけども、3は3のまま。そしてその計算結果の、15はどういう値となって出てくるかというと、掛けられる数の値。例えば「1つのお皿に3個ずつ載ったお皿が5つあります。全部で幾つでしょう」という問題の答えの15というのは、お皿の中に載っかっているお菓子の数。これと同じように、悩み事相談という活動で相談する人、される人の関係がある。
すなわち、相談する人に対して、相談された人は、いろいろなアドバイスを言う。どんなアドバイスを言うかというのは、ちょうど掛ける数のように、いろいろな変数を持っている。だけど、結果的に、その成功、不成功はどうやって評価されるかというと、相談してきた人がどんな反応を示すかで決まってくる。これはまさに算数と同じだと言うのです。
 ちょうどその頃、この学級ではアーノルド・ローベルの『お手紙』という文学作品を読んでいました。その中に手紙が来なくてすねているガマ君のところにカエル君が手紙を出し、そのことをカエル君から告白されたガマ君が「ああ、いいお手紙だ」と言って喜ぶ場面があります。これも掛け算と同じように、ガマ君に対してカエル君が働きかけている。つまり、掛けられる数であるガマ君に対して、掛ける数であるカエル君がいる。カケルとカエル、ちょっとくだらないギャグを言いましたけど。そうすると、結果はガマ君の反応で示される。それで、この男の子は、算数も国語も、そして、この相談という道徳の活動も、ひとつながりの学びだという発見をしていくんですね。こういう思考的態度というのが述語的統合です。
 既存の常識を破るような面白いつながりが出るんです。そのつながりがどういう意味を持っているのかということを想像してみる。そうすると、例えば自分とは全く無縁に見えたある出来事や人の心というものが、実は自分と地続きだったりすることが見えてくる。ちなみに、そういった想像力を育む意味で、文学というのは非常に効果的な象徴性を持っていると言われています。
 2点目は「球的充実として『問い』の力を育てること」についてお話しします。御案内のように、「主体的・対話的で深い学び」が今の教育課程の中で目指す姿になっているんですけど、私は、「深い学び」という言い方には、気をつけないと陥りやすい誤謬があるように思っていまして、それはどういうことかというと、「深い」と簡単に言いますけど、そこには、いろいろな知識を拡張していくことで得られる深さと、ある真理を追求していって一体なぜこうなるんだろうということを突き詰めて考えていく中で深まっていく深さ。それから、俳句をつくったり、創作をしたりするように、物を生み出していく、クリエーティブに学ぶ深さと、3次元の「深い学び」があるということです。言ってみれば、宇宙空間の中にいる学び手としての子供が、全方向に探索していくイメージです。
 その意味で言うと、資料に書きましたように、例えば、説明的文章を読むにあたって、3つの「深い学び」がかかわってきます。すなわち筆者はまず事実をどういうふうに集めて提示しているかを検討するという、広げる学びがあります。それから、筆者はその事実をどう分析して考察しているのか。それは妥当なのかという深める学びがあります。さらに、筆者はどういう発見とか解決策や新しい提案を私たちに示しているかに思いをはせる高める学びがあります。こういう視点を3次元的に持つことによって、子供の学びの深さというのは、持つべき問いというのは、立体的にバルーンのように広がっていくと理解しているんですね。こういう視点からの言語能力の捉えが必要になってくるだろうと思うわけです。
 さて3点目は、先ほど申し上げた地域の教育力との絡みの問題です。これは対人コミュニケーションの問題に関わってくると思うんですね。すなわち、子供たちが自分とは違う年齢、環境や違う文化圏にいる人々とどう関わっていくのかという問題です。ついせんだって、私は『これからの国語科教育はどうあるべきか』という本を東洋間出版社から出しました。国語科教育の専門家のみならず、様々な業界の方々、56名にお書きいただいた中に、京都外語大学の教授で、54年前から日本に来られて、今、京都の鴨川沿いに町家を買って、そこで暮らしておられるジェフ・バーグランドさんという方がおられますが、彼が面白いことを書かれていました。その引用が4ページのところにあるんですけれども、彼いわく、「日本人は世界一のコミュニケーション能力を持った民族である」と。コミュケーションというと、発信力ばかり、我々は問題にするんだけれども、日本人というのは例えば電車の中で、立っていた人の傘が座っていた人の膝のところに倒れかかったときに、「ゴホン」という咳払い一つで座っていた人がどういうことを言おうとしたのかを読んでしまう。こんな「コミュ力」を持った民族はほかにいない。だから、日本人は、これだけ折り目正しい平和な国民性を維持しているんだというのがジェフさんの述懐で、極めて勇気づけられる言葉でした。
 多様な他者の声を聞く力、これをもう一度改めて我々は再評価して、どういうふうに耳を傾けるかという問題を追求していきたいと思っております。
 最後に4つ目の項目「情報活用能力と言語能力の関係についてどのように捉え得ているか」についてお話しします。情報活用能力というのが今回大きな話題になっております。きっとこの後、高橋先生から詳しいお話があると思うんですけれども、今、私は日本国語教育学会の研究部長を務めていますが、そこで2年度にわたって、「豊かな言語生活と情報」というテーマで研究会をしてきました。その中で、シンポジウムを開催しました。登壇者は、乳幼児教育の専門家の針生悦子先生(東京大学)、国語教育の専門家の幸田国広先生(早稲田大学)、そして、メディアリテラシーの専門家の土屋祐子先生(桃山学院大学)に御登壇いただいて、様々な学問領域あるいは発達段階から「情報」を考えた場合にどういう視点が求められるのかということをお話しいただきました。非常に意義深いお話がありましたのでご紹介します。
 まず、針生先生からは、赤ちゃんの発達、言語獲得というのは極めて厄介な試行錯誤の連続が実は行われているんだけども、いろいろな実験研究を俯瞰してみると、言語獲得のポイントは、生身の大人がどれだけ積極的に赤ちゃんにかかわるか。この問題に尽きるという御知見が紹介されました。
 それから、国語教育の幸田先生からは、これからの言語能力と情報との関わりで重要なポイントの一つが、引用と出典の仕方。つまり、この情報はどこから来ているのか、それはどういうふうに表すと、オリジナルと引用との差異がきちんと区別されるのか、ここについての境界の線引きというのは極めて重要な、教科の枠を超えたポイントだというお話がありました。
 そして、メディアリテラシーの土屋先生からは、我々の世界での情報というのは、基本、たった一つのメディア、例えば言語だけとか映像だけではなくて、映像と音声と言語とが重なり合ったマルチモーダルな状態で来ていることを自覚することの重要性が示されました。その意味でいうと、国語科でも、言葉のみならず様々な伝達手段にメッセージ性があるという問題を改めて再評価する必要があるだろうという話になっております。
 雑駁ですけれども、今日的な課題を踏まえて、私なりの、これは私見でございますけれども、今感じていることを申し上げた次第です。
 なお、5番目の問題につきましては、当初申し上げましたように、補足資料をもって代えさせていただきます。もしこの後、言及できるような時間がありましたら御質問の中でお答えしたいと思います。ありがとうございました。
 以上でございます。
【天笠座長】  どうもありがとうございました。
 それでは、ただいまの御発表を踏まえまして、質疑応答の時間ということにいたします。学習の基盤となる資質・能力全体に係ることは、後ほどの意見交換の際に御発言いただくということで、よろしくお願いいたします。
 なお、先ほどの今井先生につきましては、後日、文書等で御回答をいただくとお伝えしておりますので、よろしくお願いいたします。
 ということで、先ほど来申し上げていますように、この後、高橋先生の御発表ということを予定しております。そこで御発言いただくというのをまた一つ予定していただければと思いますし、今の今井先生と藤森先生の発表というところで御発言をという方はここでお願いできればと思いますので、よろしくお願いいたします。どなたからでも結構です。
 秋田委員、お願いいたします。
【秋田座長代理】  ありがとうございます。お二方ともこれから何が必要かということや、それから、横断的な領域での、例えば、今井先生であれば、特に算数の領域との関係性ということもお話をいただいたと思います。特に今井先生に一つ伺ってみたいのは、現行の学習指導要領について、今井先生はどのようにお考えになっているのかが、今日の御発言は、人間の言語の本質であったり、重要な、ChatGPTではできないものは何なのかということは分かったんですけれども、現行の学習指導要領の組立てについて、何か補足すべきことがあるのかないのかというところについて伺ってみたいと思ったところでございます。
 また、藤森先生のところともつながるんですけれども、一つは、今、母語が日本語でない子供たちも、多く増えてきている中で、言語能力ということをどう考えるのかというところで、オーラルコミュニケーションは数年で獲得できても、その後の思考の言語が、書き言葉等で論理の言葉が育ちにくいという問題がいろいろなところで、心理系では指摘されています。その辺りをどう考えたらいいのかということと、あと、言語能力のところで、どうしても国語や日本語の話が多いんですけれども、やはり教科として、外国語の学習というのは、当然言語の学習の根幹の一つになりますし、これからの国際的な視点も考えたときに、どのようにメタ的に言語の感覚や資質・能力を育てていくということが、多様な言語文化や言語の利用者を育てていくことができることにつながっていくのかについては、今井先生にも伺いたいですし、ぜひ藤森先生にも伺ってみたい。特に藤森先生は、言語文化という文化的な背景についてもいろいろ考えがおありだと思うので、その辺りについては伺ってみたいと思っているところでございます。
 やっぱりメタ的な言語能力をどのように育成していくということが重要なのか伺いたいところです。
 以上です。
【天笠座長】  どうもありがとうございます。
 ほかにいかがでしょうか。市川委員、どうぞ。
【市川委員】  まず、今井先生のお話ですけれども、私も今井先生とは領域が近いので、認知科学をベースにした教育という研究になると思います。今日の今井先生のお話は、生成AIということ以上にかなり深刻だと思われるのが後半の問題だという気がするんですね。実は2分の1と3分の1のどちらが大きいのかという極めて基本的な概念ということが子供たちに習得されていない。一昔前に学力低下論が出た頃、『分数ができない大学生』という本が出ましたけど、これは大学生の話で、結構複雑な分数の計算も解かせているので、そこで間違えた。これは大人でもミスするかなくらいのことだったかもしれませんけれども、認知科学者は相当基本的な概念的な問題を扱います。それらの幾つかは、算数教育や数学教育でも指摘はされてきたことだと思うんです。さらに、今井先生のほうは、認知科学的に見て、人間がどういう心理的なメカニズムでこういう問題ができるようになっていくのかという発達も踏まえて研究なさっていると思います。
 ただ、こういうことが何十年も指摘されてはいるのに、今井先生のデータもつい最近のデータですからね。しかも、教わって何年もたった大学生ではなくて、教わったばかりの小学生、中学生でもこれだけ通じていない。そういうことが起こってしまうこと自体の問題というのが、私は、指導要領のことについても、指導法のことに関しても、問題だろうと思います。これだけ指摘されているのに、なぜ改善されてこないのか。
 今井先生は認知科学者でもあるので、こういうデータは取りますが、では、私は最終的にどう指導すればいいのか。ここに行かないと、学校の先生も、では、どうしたらいいんですかと。認知科学者がそこまで一人一人に指導したりということが普通はできないというのであれば、それは算数教育、理科教育、国語教育の方と連携してやっていかざるを得ないと思います。
 では、その連携というのがこれまで取られてきたのか。これだけ、こういう基本的な問題ができない子がたくさんいる。その事実を基に、では、どういうふうに指導改善をしていけばいいのかという連携が取れていたのかどうかということも、これは日本の教育界全体の大きな問題だと思います。これから取れていくのかと。例えば国語の分科会あるいは算数の分科会、理科でも、こういうことが実は分かっていないという指摘があったとして、では、それを受けて、とにかく正しいことを正しく教えたからといって、子供たちは正しく思考するわけではない。正しい理解をするわけではないということは、もう何十年も言われているのですから、いまだにこういう状態であるということをどうすればいいのか。やっぱり一緒になって連携して、研究していく体制をつくらないと、恐らくこの先また何十年たっても変わらないのではないかということが一つです。
 これに対して、今井先生はどういうふうに考えていらっしゃるか。我々は、学校の先生とは連携して、こういう改善を考えるという活動はしていますけれども、やっぱり広まらないし、なぜ丸々教育に口を出すのかと思われて、反発されてしまうことすらあるんですね。それは恐らくどの教科にもあると思うので、それは何とかしていく必要があるかなということが一つです。
 それから、藤森先生に対してですけれども、幾つかの上げられたトピックの中で、今、中学3年生の卒論というのを、私も校長として何人か個別指導しているんですね。4人くらい見たんですけれども、なぜ国語の中でももうちょっとこういうことを中1、中2でやってきてくれないのかなということがやっぱり最初の草稿を見たときに感じます。今、先生がおっしゃったような、自分のオリジナルな考え方と、それから、引用したもの、調べたものと書き分ける。これは事実と意見を書き分けましょうとか、人の意見と自分の意見を書き分けましょうということは一応教わっているはずですけれども、やっぱり中3でもそういうことができていないから、まずは最初、それを直してもらうので苦労するんですね。その次に、やっと内容が、何が言いたいかが分かって、内容指導ということになります。
 ほかにも、段落ということは当然習っているはずですけど、段落意識を全く持たずに、30行、40行、ずっと続けて書いてある文章であったり、あと、長くなったら小見出しを入れると分かりやすい。これはもう教材文がそうなっていますよね。なのに、自分で書くとなったらそういうことはしていない。だから、そういうような指導というのがこれからますます、レポートとかプレゼンのときには、国語教育で基本的なことはやっておいてほしいと。それを各教科で生かしていくという体制をつくることが大事だと思うんですけれども、もし国語教育の中で、プレゼンとか、レポートの書き方なんて国語でもともと教えていませんよ、自分も習ってませんよと言われてしまうと、じゃあ、どの教科でやるんだということにもなってしまいますので。
 この辺りの重点の置き方というんですか、国語教育での重点の置き方、ほかの教科からも期待されていると思うんですけれども、国語教育でどんなふうに受け止められていらっしゃるのかなということをお聞きしたいです。
 以上です。
【天笠座長】  ほかにいかがでしょうか。
 冨士原委員、お願いいたします。
【冨士原委員】  よろしくお願いいたします。本日は大変勉強になりました。ありがとうございました。私自身、大学で、国語教育なども指導していますので、特に藤森先生の「お手紙」の指導のお話は、なるほどと思いながら大変勉強になった次第です。
 私も、今こちらにはいらっしゃいませんけれども、今井先生にお伺いしたいのは、もう既に秋田先生もおっしゃっていましたし、今の市川先生のコメントにもありましたけれども、認知科学を用いて見たときに、現行の学習指導要領の何が問題なのかということを伺いたいと思っておりました。
 話はずれるようですけれども、私自身、1992年と2016年に同じ学力層の子供たちに、全く同じ作文のテーマで、同じ時間で、いわゆる条件を統制して書かせてみたことがあったのですが、子供たちは書けなくなっているのかなと思いきや、量で見ると、圧倒的に子供たちの書く量は増えている。文章も語彙も、文章全体の作文の長さも。にもかかわらず、現場の先生たちは、今の子は書けなくなったという声も聞きます。量はすごく書けているのにも関わらず書けなくなったとおっしゃるのは、特にベテランの先生方などです。原因までは分析していないのですが。この調査で例えば大きな違いが出たのは、漢字の習得が圧倒的に2016年の子供たちのほうが時期が早かったことがあります。
 つまり、何かこう言語そのものの環境はすごく豊かになっているのかもしれないけれども、本日の今井先生のお話、藤森先生のお話を伺うと、何かがちょっとやっぱり違ってきていて、それに対応し切れていないのではないかということをすごく感じさせられます。
 もしかすると、2016年は今から10年ぐらい前ですので、今の子供たちに書かせるともっと書けるようになっているのかもしれない。ただ、今井先生のスライドにもすぐありましたけど、あまり意味のないことを書いているのかもしれない。そういう意味では、もう少し実証的ないろいろなデータに基づいて、国語教育も、教育内容とか教科内容を組み立てられればいいのにと思いつつ。本日のお話としては、今井先生と藤森先生に、これまでの学習指導要領の国語科の何が不足していたのかとか、何を変えねばならないとか伺いたいところでした。例えば、漢字指導というのは疑問を感じるところです。これだけデバイスが変わってきた中で、それこそドリル的な漢字指導を今でもやっている。一緒に研究した言語学者の方たちが、語彙を多く持ち、漢字を多く読むことができ、意味ももちろんよく知っていることが大事なのに、なぜ学校現場は学習指導要領で、漢字の習得を決めて、それを正確に書けるということになぜこだわるのかと。これからのデバイスの普及からすれば、圧倒的にたくさんの語彙を獲得して、漢字の場合ですけども、読める。この文脈では、どの、日本は同義語も多いですから、この文脈ではどの言葉を的確に選択できるのかということのほうが大事だろうと。それなのになぜだ、ということを聞かれて、私は専門じゃないので答えられませんということだったんですけれども。もしも藤森先生にもそういうことなどが何かお考えがあれば、実は今井先生にもそういったこと、語彙獲得という点でのお考えをお伺いしたいと思っておりました。
【天笠座長】  進行の関係で、御意見等々あるかと思いますけども、後ほど高橋先生の御発表の後にまたお願いしたいと思いますので、現在の段階ですと、先ほど来、奈須先生から手が挙がっていますので、奈須先生の御発言をもちまして、次の高橋先生の発表、その前に、藤森先生に今のそれぞれ質問について、お答えできるところをお願いしたいということで。そういうことで、石井先生からも手が挙がっていますけど、申し訳ございません。石井先生、後ほど、高橋先生の後ということでお願いしたいと思いますので、奈須先生までということで、とりあえず進めさせていただきたいと思いますので、奈須先生、御発言お願いいたします。
【奈須座長代理】  ありがとうございます。今日のお話を伺っていると、常々思うことは、今の日本の教科指導というのはどれぐらいうまくいっているのかなと思うんですね。先般のPISAも、世界トップクラスなので、それはうまくいっているんだろうと思いますけれども、その日本がこの状態というのは、いや、どういうことなんだろうとずっと思っているんですけど。
 でも、というのは、結構うまくいっているということを前提に、気になる部分を改善しようと、指導要領とか学習指導は常々考えているんだと思うんですよ。うまくいっているんですけどね。でも、学力論も随分変わってきたし、さっきのデバイスとか、いろいろ状況も大分変わってきた。すると、今日、藤森先生、すごいよく整理してくださったと思うんだけど、今、国語なら国語、言語なら言語が目指す学力論というのが数十年前とは少し違う形で整理されてきている。現代的な課題もありますし。だったら、今の教科目標に対して、学力論に対して、合理的な内容や方法やカリキュラムの構造の再編成というのをやる必要があるのか。いや、そんなことはしなくてよくて、これまでやってきた日本の国語教育はとてもよくできていると思いますけど、その構造の部分的修正、アップデートでいいのかということが、今後、どの教科でも大きく問題になってくるかなと思うんですよね。その辺り、どう考えるのかなと思うんです、というのが一つです。
 この教科はこういうものだとしてどの教科もやってきたし、それはさっきのPISAではないですけど、どれも世界に冠たる成果を上げていると私は思いますけれども、現状がベストであるはずはないので、もっと、よりベターなものを求めて、何をどうするのか。それが教科の中ではどう議論されているのか。特に国語科、小学校では最大時数をお使いになっているわけですけども、今日の状況からすると、では、もっと時数が要るんですかね。いや、それとも、上手にやれば、現状の時数で十分やれる。いや、もっとやれば、もっと少ない時数でやれる。時数の問題は生々しい問題ですけれども、学校にとって、最大のリソースは時間なので。もっと言うと、時間というのは子供たちの時間を僕らは預かっている。もっと強く言えば奪っているので、それに対して、効率的という言葉はあまりいい言葉ではないかもしれませんけども、より目指す、子供も幸せになり、僕らもよりよいと思う学力の実現に向けて、より的確な再編成が必要であれば、やるのかなと。何かそんなことに対して、それぞれの評価はどう考えるんだろうと思うんですね。
 特に、算数とか理科というのは学問の体系なので、かなり難しいと思うんですけど、国語は言語なので、もちろん文学や言語学という親学問はしっかりあり、それを教えるんでしょうけども、ちょっと違うのかなと思うので、その辺、藤森先生から、私見で結構ですので、何か感触をお伺いできればありがたいなと思いました。
【天笠座長】  どうもありがとうございました。今井先生の中に、中学生になっても分数の意味が分からないという、そのことについての、大変詳しい御説明等々あったんですけども、この間、小中一貫教育とか小中連携、あるいは9年間を通した教育課程、その下での実践というのはどういう成果を出しているのか、出していないのか。例えば比較してみた場合に、この辺り、今回御説明いただいたデータに違いがあるのかどうなのか。
 ある意味で言うと、もう一段、カリキュラム研究と言うんでしょうか。そういうことを提起している部分でもあるのではないかと思いますし、この間の9年を通しての取組ということと、この結果ということがどういう脈絡になったのかどうなのかという。もう少し丁寧なそれというのも今後問われているんじゃないかなとも、そんなことも思った次第ですけど。それはともかくとしまして、ここまでのところで、委員の皆さんから出ていた御質問ですとか御意見について、藤森先生として何か申し上げたいことがありましたらお願いできればと思います。
【藤森氏】  ありがとうございます。あまりにも巨大な質問をいただいて、答えるのに今、困っていますけど。大きく分けると、国語科という、教科名のついた言葉の学びという問題と、あらゆる学びの中に言葉は関わってきますので、巨大な意味での、本質的な意味での言葉の学びという問題とを常に頭に入れているんですね。
 特に今、幼児教育のほうに相当な軸足を置いていますが、幼児教育の世界で、教科という発想はなじまないんですよね。例えば自由遊びの時間に水飲み場で雨樋を使った水路づくりに没頭している子供をずっと観察していたときのことですが、一生懸命、水路をつくるんだけども、なかなかうまく流れてくれません。その子はどうするかというと、ビール箱を重ねて、滝をつくるんですね。やっていることは。位置エネルギーをどういうふうに工夫すると物が上手に流れるかという物理実験です。こういったことを、遊びの中で経験している。そういう経験の中に、言葉が関わってくる。
こうした教科枠を超えた次元での言葉がある一方で、学習用語がいい例ですけども、例えば「比べる」とか「等しい」といった、概念操作をするときに必要な言葉というのも学んでいかなくちゃいけない。実は教科書はそれを結構意識していて、教科書の後ろに、これはぜひ頭に入れておくべき、踏まえておくべき学習用語が示されています。例えば、さっき市川先生がおっしゃっていた、論理的な文章のプロットについても、実は資料編のような形で結構載ってはいるんですよね。
 ただ、今井先生の話を引き受けて言うならば、それらが自分の中で経験値として、つまり、実際の活動として十分に経験されていないものだから、「ああ、そういうものなんですね」という形になっているような印象を僕は持っています。
 ところで、理科や社会と違って、国語で扱う言葉というのは、言ってみれば、物を学ぶための道具自体であり、なおかつ、文学作品だとか説明的文章のように、学ぶ素材でもあります。つまり、言葉でもって言葉を学ぶという、こういう二重構造があるために、国語科における「見方・考え方」は捉えにくいと思っています。
 あともう一つ申し上げておきたいのは、データでいろいろ問題提起するときに、ネガティブな話が非常に多いような気がしているんですけど、今の子供達の「言語能力」が低下しているとはかならずしも言い切れないデータもあるはずです。例えばテレビのニュース番組のインタビューで、小学生の子供たちに、「今日の行事、どうだった?」、「〇〇会、どうだった?」ということを聞くと、昔は、「面白かった」、「楽しかった」の一語で答える子供が多かったけれども、最近の子供たちは結構複雑なことをいろいろと言いますよね。例えば「今日、僕たちにわざわざこんな会を開いてくださって、感謝にたえません」という感じでね。同席した大人よりも立派なことを言ったりしていますから、あながち全てがマイナス方向に行っているような、そういった変なあおりは、私は慎重になるべきではないかなと思っているところです。
 まとまりませんけども、以上です。
【天笠座長】  どうもありがとうございました。
 それでは、次に進ませていただきたいと思います。情報活用能力についてということで、高橋委員より、資料5-1と5-2を提出いただいております。高橋委員、御発表をお願いいたします。
【高橋委員】  東京学芸大学の高橋でございます。よろしくお願いいたします。今日は、情報活用能力ということですが、この後、3つに分けて、歴史的な経緯、我々どもで別の情報活用能力に関する意見交流会で情報活用能力は何たるかと話し合った成果、あと、1月の発表にあった研究開発学校での取組を踏まえて、どのように考えていったらいいのかの3部でお話ししたいと思っております。
 ただ、冒頭に私が申し上げたいのは、これまでの経緯もございますが、特にこの分野はこの10年で非常に変化があったと認識しております。一つは、GIGAスクール構想というのは非常に大きくて、情報端末があるという環境での学習というのは様々に変わったと捉えております。僕は、子供一人一人が本当に主体的に学ぶことがやりやすくなったと思っています。特に、1人1台端末もあるんですが、最新のクラウド技術というものが、これまでの学級やグループの中に個人が所属して勉強していくみたいな、そういう感覚から、まず個人があって、それらの和や積分と言ったらいいのか分かりませんけど、それによって、学級やグループが構成されていって、そうした学級やグループの知見がさらに個に戻ってきて、個々の子供の頭がすごくはっきりしていくと、こういうことが非常に高速に端末によって行えるようになってきているというのが一番新しい実践だと思っています。
 もうちょっと言うと、子供一人一人、個々がそれぞれの学習情報とか興味をしっかり持って、蓄積して、共有して、それが高速に、他者ともやりとりしながら、繰り返し何度でも自分のペースで、そういう情報が活用できると。かかる時間も短くて、先ほど量の話も出ましたけど、非常に大量の量を扱えるようになっているということです。
 その際、言葉や、読み言葉、書き言葉とか、そういう言葉もありますけども、音声、音声も言葉かもしれませんけど、映像とか、実際に画面を操作するとか、こういった言葉のみに頼った概念形成、紙とかスピード感のない情報提供、共有の方法から非常に大きく変化して、文字だけでは理解できない子供も含めて、様々なニーズを持つ多くの子供たちの概念形成に、こういった情報端末が非常に生きてきたと思っています。
 こうしたGIGAの時代において、言葉も含めて、情報をしっかり使っていく。そういったことの支えになる情報活用能力、さらに、そういう技術としての情報通信技術をしっかり学んでいくにはどうしたらいいのかと考えている次第です。
 少し前置き長くなりましたが、まず、歴史的経緯について確認したいと思います。1986年の臨教審で、情報活用能力という言葉が初めて示されたと言われております。ここでは、基本的には、情報化の光と影へ対応していくんだというのが一つ大きなトピックだったと思います。
 さらに、ちょうど今と似た話だけ取り上げさせていただくと、情報手段は、指導の個別化、指導形態の柔軟化を可能にするとか、個々の学習者の学習進度や特性に合わせた指導を可能にすると、これが86年に言われていると。これが今叶いつつある。一部の学校ではこれを目指してやっていると。全部の学校が頑張っているんですけども、一部の学校で成功し始めているということです。
 先ほど室長からも御説明があったとおり、2006年に、3観点8要素ですね。情報活用の実践力というのは、手段としての情報活用であり、情報の科学的な理解というのは、目的としての情報の中身を勉強するという意味で、情報科学とか、情報通信技術を勉強すること。情報社会に参画する態度、これはまた情報モラルも含むんですけど、決して情報モラル全てではなく、情報社会全体に参画し、貢献するというような、この3つの柱で示されたと私は思っております。
 2008年に学習指導要領が改訂、告示されたときに、1教科かそれぐらいを除いたほぼ全ての教科に、情報モラルという言葉が入りました。入りましたが、情報活用能力という言葉がなかったがゆえかもしれません。臆測ですが、ここでやはり情報活用能力は、やや情報モラルという影の部分が強調される結果になったように思います。体系的にも少し弱くなったなと思っております。
 2017年に、今日、話題の学習の基盤となる資質・能力ということで、情報活用能力が示されていると。また、(情報モラルを含む)ということで、こういうような経緯があったと思います。
 それを踏まえまして、情報活用能力に関する意見交流会のほうで、別の資料になりますが、こういう議論が行われたということを御紹介したいと思います。12月、4か月前にまとめられたものですが、マーカーで塗られている部分を中心に御説明させていただきたいと思います。
 まず課題としては、基本となる資質・能力の中でどういう関係になっているかということがなかなか明確になっていないであるとか、情報活用能力、育成の必要性について、あまり十分に理解されていない現状があるのではないかという有識者の御意見でした。
 学習の基盤となる資質・能力としての情報活用能力というのは、例えばデジタル技術の活用に焦点を当てたものとか、あるいはもっと範囲を広くして、情報通信技術とか、そういうデジタル技術そのものを勉強するものも含めて、情報活用能力ではないかとか、幾つか案が出ました。
 これに関しては、全体のバランスの中で我々も考えるべきだと思っておりますが、これまでの経緯で考えると、先ほどの3観点8要素が、基本的な情報活用能力の考え方だろうと思っているところではございます。
 続いて、黄色はありませんが、この後御説明したいと思います。1のデジタル技術の適切な活用であるとか、2のデジタル技術を活用した課題の設定、情報の収集、整理・分析、まとめ・表現。探究っぽいところでの情報活用。3番目が、情報科学、プログラミング・数理・データサイエンス・AI等。4番目に、情報モラル等みたいな、学習内容で言えば、こういった中身が含まれるだろうというところもおおむね合意しているところでございます。
 GIGAスクール構想における学習基盤がデジタル化しているところの整理については、この後また御説明しますので、一旦飛ばせていただきます。
 そういったことの内容について、現状も踏まえて申し上げると、1のデジタル技術の適切な活用については、基本的な操作スキルが子供たちに十分に指導できている状態ではないと。つまり、これは特定の時間がないですから、各学校のカリキュラムとかそういうところに委ねられているというところがございます。
 2は、要は問題解決するとき、必ず情報を収集したり、整理・分析したり、まとめ・表現したりするんですが、これはどこの教科にもよらない汎用的な学習活動であり、どんな内容であっても、ふだんから取り組めるようにしておくべきだと思うんですけども、しかも・そのときに、ICTを使うというのは大人にとっても当たり前だと思いますので、そういったものをしっかり指導していくことの重要性について語られたりもしました。
 この情報科学、プログラミング・数理・データサイエンス・AIについては、特に大学の中で、最初の初年次教育などで、この数理・データサイエンス、AI、プログラミング等が入っている中で、高校、中学、小学校と一貫して接続できているのだろうかということを考えていく必要があるのではないのかということも話題でございました。
 4番目、情報モラル教育に関しては、これまで以上に重要だとは思いますが、様々な概念が出ている中で、考え方としては変わらないですけども、こういった新しい概念をどういうふうに取り入れていくのかということが話題でございました。今、表示している方々で話し合った成果を御説明させていただきました。
 その上で、少し戻らせていただきまして、1月の春日井市の研究開発学校による発表も踏まえながら少し話をまとめていきたいと思っております。
 1人1台端末活用がどんどん、状況が変わってきていますので、少し将来像みたいなこともお話をしたいと思っております。基礎的な知識・技能の習得は、AIドリルや動画等に置き換わりつつあるということが、一部の学校で、特に第3世代という言い方をしていますが、こういうような動きがございます。これまでの紙ドリルを単純にデジタル化して、採点が自動化されたという第1世代から、アダプティブで、苦手を克服していくような、こういうようなタイプの第2世代。第3世代は、そもそも教師がいなくて、第2世代までは、先生が教えたものを習熟するみたいな考え方でしたけど、そもそも3世代ぐらいになると先生がいなくても進めるような、こういったタイプの教材が出てきてございます。
 そうなってくると、これまでの入試対策的な授業が、全部とは言いませんけど、そういったタイプの授業は、これらに置き換わる可能性を考えると、対面の教室の役割ということは結構高次の資質・能力の育成になるだろうと。問題解決活動を繰り返すことになっていくだろうし、その際は、調べて、まとめて、伝えるといった探究活動の基本になるだろうし、その際は、ICT機器を使わないとか、情報活用能力がなくて、問題解決ができるとはとても思えませんので、この辺りをどういうふうに共通的に指導していくのかということが重要だと思っております。
 ただ、一方で、これはまた、富山県富山市でうまくいっている学校の例でございますが、こういうふうに、当たり前に使えるようになるための時間の確保というのは、各校の工夫に委ねられている。指導法も含めて、そういったような現状がございます。したがいまして、全国学調の質問紙などを見ても、児童生徒質問紙で、「毎日使っていますか?」みたいなことを聞いても、非常に地域差とか、中学校になったら伸びるとか、そういうことはあまり見られず、各地域の努力にかなり依存している可能性が考えられるということになります。
 そういった中で、1月31日に、情報活用能力、特に問題発見・解決能力に近いかもしれませんが、探究的な部分について取り組んでいる春日井市の御発表が水谷先生からありました。この学校では、ここで言うところの、B1であるとか、情報社会に参画する態度であるとか、B2の情報手段の基本的な操作等、ICTの操作等、それと、このB3の問題解決の基礎、課題の設定、情報の収集、整理・分析、まとめ・発表ですね。探究といってもいいかもしれませんが、これを研究開発学校として、情報の時間で学習をかなりしっかり指導をしていると。週1回ですけども、やっている状態です。
 それが御発表にあったとおり、日常的に教科の学習の中で探究が行われるようになりましたし、もちろんここはAIドリルの力も借りて、定期テストも半分の回数になってございます。小学校もこんな形で、いろいろ個別に学ぶ子、協働で学ぶ子、自分一人一人で学ぶと。こういったときに、基盤となる資質・能力、情報活用能力がなければ、こういうような、子供が主体になって学ぶということは不可能かと思います。
 したがいまして、そういうような力を身につけていったとき、先生がこうやってステップバイステップで、一斉で指導していかなきゃいけなかったところから、自分で判断して、自分で勉強していくことができる子がどんどん現れております。そのときにクラウド技術を使って、白紙の段階から他者の学習成果を参照しやすくして、協働しやすくして、それで先生が一人一人の様子をしっかり見て助言していく。こういうような、複線と言ったらいいかもしれませんが、様々な理論を応用した複線型の授業が今、生まれているところです。
 これも御発表にあったと思いますが、こういうようなレポートが、中1の授業中に30分ぐらいで、各子供から出てくるということになります。あるいは、文字を書くのがとても大変で、長い文章が書くことはできなかったけど、1人1台端末で書けるようになったということであるとか、自分でアウトプットすることで、自分のペースでできるようになって、従来より短い時間で理解が深まるといった感想を述べる子供もいます。
 ちょうど、つい先日、提出した研究開発学校の報告書には、子供のアンケート調査の結果も少し載っておりますが、例えば情報などを整理することができるようになったことで、文書などを書くときに文の順序が分かりやすくなり、文を書きやすくなったと。これはやっぱりコンピューターでやり直しがすごくしやすくなったり、何度でもできるということがすごく大きいと思いますし、情報収集の際に、その情報が正しいかなどを吟味して活用するなど、情報を活用する際に気をつけるべきことを学び、それを授業の中で活用することができたとか、こういったことがございます。
 教師の感想の一部は、コンピューターの使い方を一から説明しなくても、情報の時間に学習したことを活用して学習できていて、振り返りについても情報の時間に学習したことを使って書けるようになってきたというのが小学校であったり、中学校ぐらいだと、物事の理解を深めるために、多面的に調べたり、得られた情報の信憑性を調べたり、仲間と協働して学びを深めることで、自分なりの意見を持つことができるようになっている。こうした思考を深めることは、生涯にわたって学び続ける資質向上にもつながるのではないかと考えているということが、教師の感想としてございました。
 これらを踏まえて、最後に私から申し上げたいのは、1や4、デジタル技術の適切な活用や情報モラル等に関する指導は、子供たちがデジタル社会を生きる基盤やGIGAスクール構想の実現の基盤としても重要だと考えております。2のデジタル技術を活用した課題の設定、情報の収集、整理・分析、まとめ・表現は、各教科での探究的な学習を支える基盤として重要だと考えております。
 3番目の情報科学、プログラミング・数理・データサイエンス・AI等は、教科内容として一層の充実が重要ではないかと思っております。もう少し申し上げますと、生成AIなど、新たに生まれたり、変化の激しい事項についてはまだ内容としても入ってもないんですけども、それだとしても、10年に一度の指導要領改訂や教科書の検定サイクルでは少し遅いかもしれないと。動画等、新しい技術を使って、伝えていくような書き方もあるかもしれないとか、特に②の探究的な活動を支えるようなこと、各教科等で共通に発揮するような基盤としての情報活用能力は、先ほどの春日井市の例のように、特設の時間などで集中的に指導することが望ましいのではないかということ。数理・データサイエンス・AIに関しては、大学からのつながりで考えますと、高等学校の教科、情報の中でしっかり取り組むということも重要かもしれませんし、中学校段階は特にもっと接続が弱いことが時数からも考えられますので、こういったものの充実が必要なのではないかと考えているところでございます。
 私からは以上になります。
【天笠座長】  どうもありがとうございました。
 それでは、今の高橋委員の発表を加えまして、3名の方からの御発表につきまして、御質問、御意見をお願いできればと思います。
 なお、本日は、既に御案内のとおり、16時を終了の時刻としておりますので、よろしくお願いします。すなわち時間の限りで終わりにさせていただきたいと思いますので、発言につきましては簡潔にお願いできればと思いますので、よろしくお願いいたします。
 それで、今、私のほうに意見の申出が石井先生からあります。それから次に貞広先生からあります。先ほどの続きということで、まず石井先生からよろしくお願いいたします。
【石井委員】  では、失礼いたします。非常に勉強なりました。ありがとうございます。大きく4つぐらいの柱で、ポイントを絞って、質問と意見を述べさせていただけたらと思うんですが、一つはまず、今回、学習の基盤となる資質・能力ということがあるんですけども、この学習の基盤となる資質・能力というのは、カリキュラム、教育課程上どのような位置づけになるのか。あるいは、それを育成する方法論というか、アプローチの仕方はどういうふうに考えていけばいいのかという辺り、この辺は改めて考えていく必要があるのかなと思います。
 大きく見れば、学習の基盤となるということは、現在、言語能力、情報活用能力、それから、問題発見・解決能力等と書かれているのは、なぜこうなっているのかといえば、学習指導要領のこれまでの改訂のプロセスを考えると、いわゆる方法領域に当たりますよね。教科横断的な方法領域として、従来から問題解決型の授業みたいな形でやられていたところはありますけども、それは各教科の中に溶け込む形でやっていた。それがPISAショック以降、言語活動の充実という形で、教科横断的な方法領域的なものが明示的に入ってきたと。さらに今回、情報というところで、もともとそういったものはあったと思うんですけども、その辺の部分が入ってきているということかなと思います。
 さらに言うと、今回の資質・能力ベースということで、課題発見ということも入れて、課題発見・解決能力ということで、従来の問題解決型の授業をより子供たち主体ということで考え直していくという、そういう方法面に対してのメッセージというのがここにあるのかなと思うんですね。
 そんなふうに考えたときに、各教科の中で溶け込ませて、それでじわじわと育てていくというぐらいの運用であって、それこそ、よく小学校でもありますように、声の大きさ、ゾウの声とかありますよね。そんなふうに、いろいろと日々意識していくということが重要で、それを取り立ててトレーニングするかどうかという辺りは議論が分かれるところかなと思います。基盤だからといって、まずそこを取り出してやって、強化して、それで、各教科に活用するという形も考えられるかもしれませんが、それとは別にやっていく中で、自然となじませていく、浸透させていくというアプローチも考えられるかなと思います。
 この辺の運用の仕方については、ちょうどPISAショックのときに、PISA型読解力を育てるという名目において、読解科みたいなものが結構できたと思うんですね。それの総括が必要だろうと思います。そういう形で特出しの教科化にしたときに、それがどういうふうに運用され、それで現在どうなっているのかという辺りのことを改めてちゃんと検討していくということが大事かなと思いました。
 そういったものも踏まえつつ、2点目というか、基盤となる資質・能力の性格を改めて明確にした上で、これにどのようなカテゴリーを乗っけていくのかといったときに、一つ論点になってくるのは、情報活用能力について、先ほどの高橋委員から報告にもありましたように、いろいろなものを取り込んでいるところがありますよね。技術科として内容的に取り込んでいける部分もあるし、情報活用能力という形で、各教科の中でやっていく中で学んでいくということもありますし、さらに言うと、課題発見、情報の収集とか課題の設定とか、これはもう総合的な探究の時間の探究のサイクルそのままというか、本当に一般的な学び方みたいなことになっていると。
 そうなってきたときに、言語能力、問題発見・解決能力、これも情報活用能力に上乗せして、全部統合してしまえばいいのではないかという議論もできなくはないのかもしれませんが、さあ、それが果たして妥当なのかどうかという辺りは議論が必要かなと思います。
 そういうふうに申しますのも、これは3点目の質問にも関係しますけれども、やはり言語、言葉の学びといったものが固有に持つ要素、言語能力という形で、言葉の学びといったときには、情報活用能力という言葉では回収し切れないような意味を含んでいると思うんですよね。情報活用というふうに全て知識を情報として語ること自体が、一つのメッセージを発してしまうところがあるかなと思います。
 3次元というか、立体的、全体的ということが今井先生のお話の中でも一つポイントだったと思うんですね。全体があるから見えないものを想像できる。部分の積み上げではないというところ。さらに言うと、空間的な認知があるから視点転換ができる。だから、空間性。それらの根っこにあるのは身体性。だから、認識においてこれらがこの間弱くなってきているところはあるのだろうなと思うんですね。
 そうしたときに情報活用能力ということで、そこに一元化されるということは、先ほど幾つか出てきている例で言うと、人間がAIのようにではないですけども、記号接地せずに、機械のように学ぶという学び方を習得している可能性もあり、それを強めてしまう可能性がないかと。先ほどの書くということも、読むということもそうですが、接地するというか、結局何かと言ったら、思考の風景とか中身、意味をちゃんとつかんで読む。さらに言うと、意味をちゃんと伝えるという部分が弱くなっている可能性もあるわけですよね。だから、言葉の学びというのはどうあるのかという辺り、情報活用では解消されない、その辺のところを改めて検討していくことも重要かなと思いました。
 最後一つ。情報に関して、この間、情報活用能力、GIGAスクール構想、1人1台端末といったときに、かなりいろいろな形で教室の風景が変わってきている。しかし、それの光と影の部分を、先進校もそうですけども、どういうふうに改めて見極めていくかということも大事かなと思います。その点、高橋先生、現場の様子を様々見られていると思うんですけども、確かに私もこの春日井市の取組に関しては優れた取組だなと思っている一方で、そうではない影の部分もいろいろとあるのではないかなと思うんですね。その両方を総括する。
 そのときに、海外はどうなのかということも含めて、海外は実際どうなんでしょうか。全部ペーパーレスにしていっているのかなとか、黒板はなくなっているのかなとか。黒板はあれかもしれませんけどね。ホワイトボードがあるかもしれませんが、手書きとかそういったものが本当に少なくなっているのかどうかということも含めて、改めて海外の様子を見ながら、光と影といったものをちゃんと見極めていくことが大事と思うんですが、その辺り、高橋先生の御意見を伺えたらと思います。
 すみません。長くなりましたが、以上です。
【天笠座長】  どうもありがとうございました。高橋先生と、それから、藤森先生には最後に御発言いただくという形で進めさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
 それでは、続きまして、貞広委員にお願いいたします。
【貞広委員】  ありがとうございます。ちょっとまとまり切らなくて、長くなって、天笠先生に叱られそうですけれども、なるべく短くしたいと思っています。
【天笠座長】  どうぞやってください。
【貞広委員】  はい。お三方に大変貴重な御報告をいただきました。ありがとうございました。大変勉強になりました。今井先生の御著書や論文は本当に不十分ながらこれまで読んでいたんですけれども、今日のように、学習指導要領と連動して考える場でデータを見せていただくと、リアリティーの感じ方が違って、言葉をショックを受けました。また、奈須先生がおっしゃっていた、PISAで高学力なのにという問題については、今井先生のお話を伺い、PISAのように周到に文化的に脱文脈化されたような学力はついている、一見、記号を組み合わせて、うまく何か表現できているように見える、しかし、それらは身体化されていない空虚性のある学力ということなのかもしれないという私なりの理解をしました。
 その上で、やはり秋田先生がおっしゃっていたように、じゃあ、どこが悪いんだという問いが出てくるわけですが、そのときに、もし可能であればという、秋田先生がやんわりとおっしゃったのを、私はずうずうしいので、もうちょっとブレークダウンして伺うと、学習指導要領の立てつけが悪いのか、教科の分け方が悪いのか、それとも、そこはいいんだけど、指導方法が悪いのか、教科書が悪いのか、または身体化という意味では、子供たちの今の日常生活がそれをさせないのか。例えばこの会で以前安宅先生がおっしゃっていた、自由で多様な実体験が失われているので、いかにいい学習指導要領、いい教科書を使って、先生方が指導しても、身体化されないでいるのか。そのミックスなのか。ミックスだったらどういうミックスなのかというこの辺りをぜひ伺ってみたいと思った次第です。
 ただ、その上で、これは高橋先生に御質問ですけど、石井先生がおっしゃったように、高橋先生がご紹介されている取組では、情報活用能力をさらに超えて、言語活動なりが全部集約されているような形になっている様に見えます。そうしますと、先ほどの私のどこが悪いのかという問いは、高橋先生の御報告を聞いていると、指導方法にある様に見えるんです。または、特設な時間を設けて、こういう能力を育成する時間をつくり出せば、そして指導方法を変えれば、いや、今の学習指導要領は十分子供たちに刺さっていくとも見えます。この理解で正しいのかどうかということを高橋先生に伺いたいと思います。
 長くなりまして、申し訳ありません。
【天笠座長】  どうもありがとうございます。
 委員の方からの御発言続けさせていただきたいと思いますけども、先ほど御発言いただいた方でも、まだ少し時間的な余裕がありますので、どうぞ御遠慮なく御発言いただければと思いますけども、いかがでしょうか。市川委員、その後、秋田委員でお願いします。
【市川委員】  私からは2点、意見と、また、さらにそれに対して伺えればということです。
 一つは、情報活用能力という言葉ですけれども、私は、80年代、90年代ぐらいから情報活用能力とか情報教育という言葉は聞いていました。そのとき自分自身でも分からなかったり、これを聞いた人も、結構その頃はまだもやもやっとしていたと思うんですね。情報というのを広い意味に捉えれば、国語教育でやっていることは全部言語情報ではないかとか、それから、数学でやっていることは数理的な情報ではないかとかということで、何か全部を包み込んでしまうようなこと、これはコンピューターを使う、使わないにかかわらず、人間がやっていることは情報処理だと。認知科学ではそう考えますので。すると、もう100年前から、実は情報活用能力というのはあったのではないかみたいなことも出てきて、学校としても、じゃあ、情報活用能力というのはどこを指すのかということは結構混乱していたと思います。
 最近の議論を聞きますと、私は随分それが絞られてきたのかなと。要するに、やっぱりデジタル技術あるいはICTの活用に関するスキルと理解とモラルなのかなと、割と議論が絞られてきたような気がして、私はそのほうが明確でいいかと思っています。いろいろな教科教育でやっていることが全部、情報活用能力ではありませんよね。そこにICT技術が入ってきたからこそ、それを駆使していく。それに伴う理解とかモラルも含めて、これが今言う情報活用能力なんですよと言っていただけると意味ははっきりするかなと。場合によると、ちょっと名前を変えたほうがむしろはっきりすっきりするのかなと思いました。そういう理解でいいかどうかということですね。
 もう一つは、私も高橋先生の関わっていらっしゃる実践はすばらしいと思います。私が特に最近いいと思うのは、やっぱり探究的な学習の中でこそICTがすごく生きてくるんだと。私も全く賛成です。確かにそこでの子供たちの活動というのが質的にもかなり高まっているし、これまで手書きで全部やっていたのに比べると、なかなかそれでは書けなかった子も書けるようになったり、あるいはプレゼンとかでもそうですよね。ああいうプレゼンソフトみたいなものを活用することで発表もできるようになったとか、そういう例もたくさんあると思います。
 ただ、そのことと評価方法との乖離というのが気になっていまして、結局のところ、定期テストをやるときにはコンピューターを使っちゃいけないよとか。これは電卓のときにもありましたよね。電卓、あれだけ普及して、大人はみんな電卓でやっているのに、子供はなぜか筆算。テストとか入試になると、結局、電卓は使っちゃいけないとかですね。
 学校では、今、むしろ定期テストはしないというところも増えてきている。増えているのかどうか分かりませんけど、出てきていると。でも、ニュースになるぐらいですから、まだまだ数は少ないと思います。
 では、高校入試、大学入試はどうか。君たちがふだん使っているICT機器、存分に使って、小論文800字書いてくださいとか、そこまで徹底しないと、ふだんやっている学習活動と評価されるときの活動が違ってしまう。結局、君たち、入試のためには手書き、ちゃんと練習しようねということをやらなくてはいけないのかということになってしまう、あの子たち、かわいそうな気がするんですよね。あれだけのパフォーマンスをデジタル機器を使って発揮しているのに、評価されるときには使っては駄目だと。
 これは大学入試になるとかなり深刻で、例えば、高校でそんなにデジタル機器を使った探究学習などをやっていると、やっぱり進学実績に響くと。いや、笑わないでくださいね。深刻な問題ですからね。すると、中高一貫校としては、では中学校ではやりましょうと。探究活動で、しかも、デジタル機器もどんどん使いましょうと。高校になったら、やっぱり入試に集中しましょうという辺りが割と妥協点だったりもするんですよね。
 ですから、これは学校だけの力ではどうにもならないので、やっぱり大学入試を含めた、こういう評価方法との対応を全体として相当考えていただかないと。今、総合型選抜みたいな大学入試も出てはきましたが、せっかく指導要領が変わったり、学校の中での実践が変わったりしても、結局はということになりかねない。
 これは意見というか、愚痴というか、分かりませんけれども、その辺りも今後の非常に大きな課題かなと思っています。
 以上です。
【天笠座長】  秋田委員、お願いいたします。
【秋田座長代理】  大変刺激的なお話をありがとうございます。先ほど高橋委員から御指摘があった、資料2の4ページ目で、要するに、情報活用能力は大きく4つに分けることができて、1つ目のデジタル技術の適切な活用というところは、ある種、特出し的なところも意味があるのかもしれないんだけれども、2の課題設定とか、情報とか探究というのは各教科でやっていくことができたり、3、4の辺りはよりつなげて、どこの段階から進めるのか分からないんですけれども、そういう方向性を御提案いただいたのかなと思います。
 先ほど石井委員から、教科横断的な資質・能力を今後どう扱うかというところで、私が思ったのは、実は言語能力のところで、去年だったか、おととしまで、私は、研究開発学校の福井大附属が国語の時間を減らして、話すこと、聞くことと書くことの部分は、逆に社会創生という、総合的に子供が伝えたくなるとか、子供が書きたくなることを書くというところで、指導していくというような形で、時数を逆に国語の授業を減らして、文脈の意味のあるところできちっと力がつくということを議論がなされたんですね。こういうことを考えていくと、教科横断的なものについては、先ほど奈須委員が、どれだけの時間をどういうふうに割り当てるのかという話があったんですけれども、今後、各教科で情報活用能力とか、言語能力でも国語固有に学ばなければならない部分と、もっと意欲が、情報活用能力もそうでしょうけれども、ある種の探究などのところは、やっぱり教科横断でやっていくことのほうが、より意味があるところがあるのではないだろうかと考えます。その辺りについての、先ほど貞広委員が、これは指導方法の議論ではないかと言われました。要するに、カリキュラムとしての学習指導要領を大きく手をつけるのか、そうではなくて、これは教科横断で、こういうことを大事ですよと、より強調していくべきなのかというときに、むしろ教科横断的なところで考えていくべきなのかなと。
 先ほど、例えば春日井市の事例では、1時間、設定しているというお話があったんですけど、私はこの1時間だけではなくて、春日井市の事例の成功はシステム的に先生たちも、各教科でもやっているからであって、その1時間を特別に設定したことの成功ではなくて、研究開発学校がこう減りましたとか、こう時間ができましたというのは、やっぱりそういう学校に力のある先生が意識的にやるからであって、全国で何かそういう特定の科目のような時数を割り当てて、特別にうまくいくのかというと、うまくいかないのではないかと思います。むしろ今後も各教科横断だけれども、そこのより内容を精緻化するとか、方法の工夫ということについて明示をし、学習指導要領は内容ですから、そこの中でどこまで方法に踏み込むのかということはあるんですけれど、その辺りで考えていくというほうが、全国の小中高の先生たちが理解しやすいのではないかなというのを考えます。今いろいろ開発学校なども入れていただくと、その学校はすばらしいんだけれども、それが全国に果たして、同じ効果を生むのかというようなところで感じた次第であります。
 PISA型読解力のときは、逆に国語科の中でかなり意識して、論説文のところなどに力を入れたことが効果を奏しているのではないかと思いますので、今後もそういうところで情報活用のどこにどのように力を入れていって、方法としてやったらいいのかという議論は必要かなと思うところです。
 以上です。
【天笠座長】  それでは、ここのところで、高橋委員にお答えできる部分をお願いしたいと思います。もし、その際あれでしたら、私のお尋ねについて加えていただければと思うんですけども、それは先ほど御説明の中に、春日井市と、今もお話ありましたし、それから、富山市の芝園がありましたけども、あそこの教室の映像ですね。あそこのところで、富山市の場合は、比較的新しい工具が、家具がああいう形でレイアウトされて、比較的モダンな環境づくりをされているようですし、春日井市の場合には、まさに既存の環境構成の中でそれが進んでということが、先ほどの中で御紹介ありましたけども、その辺りのところの環境整備と言うんでしょうか。教室の環境整備あるいは学ぶ空間の環境整備ということですけども、先ほど来の内容とか方法ということですけども、我々はどうも方法ということが一見分かったようで非常に茫漠とした言葉で、言っている人のイメージでということですけども、そうした場合に、例えば教室の家具等々の工夫というのは、教室環境の整備としてというのが方法上の工夫の範疇に入るのか、それともまさに教師がおっしゃる、いわゆるこれまで言った指導法という範囲の中のそれという辺りからすると、教室の環境整備というのは、指導方法とはやや違ったところに、違ったりとか、その範疇からずれたところにあると思うんですけども、昨今の学校の組織づくり、それから、環境づくりとか、まさに先生方の指導法というのが混然一体となって、指導の工夫という状況というか、状態があるように思うわけですけども。
 改めてICTの整備あるいは情報活用能力を育てるという観点からしたときに、申し上げたような観点について、高橋先生としてはどんな御見解をお持ちなのかどうなのかお聞かせいただければということを付け加えて、言っていただければと思います。
 すみません。奈須委員が今入りましたので、奈須委員のお尋ねをお願いして、その後、高橋先生、お願いします。
 奈須委員、お願いいたします。
【奈須座長代理】  すみません。1点だけです。高橋先生の春日井の取組で、情報活用に1枠を増設で、情報活用のコアな部分ですね。情報科学に関するようなものを特出しして教えると。秋田委員からあったように、でも、そういうことはどうなんだろうという、この辺が今後難しくなっていると思うんですね。いろいろなことが状況の変化に伴って、従来のカリキュラムに上乗せしなければいけないものがやはり出てくると。これがカリキュラムオーバーロードとの関係でどうするんだという話になるんだけども、一方で、これはずっと思っているんですけど、情報科学の議論の中で、結構な量のものを35時数にうまくコンパクトにまとめて、しかも、転移可能になる工夫をいろいろやっていると思うんですよ。
 一方で、要するに、既存のカリキュラムに対してどうなんだろうと思うんですよ。つまり、昔からやってきたものをそのままかなりたくさんやっていて、それをそれだけの規模で、そのレベルで、そのやり方でやる必要があるんだろうかみたいなものは、伝統的な教科のいろいろな枠の中にないですかね。そう考えると、私は情報活用の35というのは決して法外な量であるとは思わないんですよ。ただ、今までものを置いておいて、35を載せるというと大変だなと思ってしまうわけですよ。この辺のことを一遍考えなきゃいけないなと思っているんですね。
 例えば情報活用のことで以前話題になったのは、例えばタイピングはどこでやるんだといったときに、タイピングは多分、国語で受けていないと思いますよ。いや、だから、そこはどこでやるんだろう。それも情報活用でやるのかな。だから、やっぱり後から入ってきたものはどうしても不利になるんですけど。教育関係の歴史からして。一遍、従来あるものと新しく入ってきたものをできるだけ均等にというか、だから、カリキュラム全体で何を実現するのかに対しての目的合理性で全部を見直すぐらいのやり方をそろそろしなきゃいけないんだろうなというのが、この情報活用とか言語が出てきたときに思うんですね。もうそこまで日本の教育課程の見直しというのは来ているんだろうなと。すみません。そんなことを思っていました。多分、高橋先生に対しては応援的になるのかもしれないけど。
 すみません。以上です。
【天笠座長】  それぞれ委員の方から様々な御意見等、御質問があったかと思うんですけど、高橋先生、どうぞよろしくお願いいたします。
【高橋委員】  ありがとうございます。話としては、私ども、特に私はどう思っているかというのは、前からこの委員会に出させてもらって、少し反省したのは、例えば、主体的・対話的で深い学びであるとか、個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実。これは教育方法とかそういうレベルのものではなくて、物の考え方や理念なのだと言われたということです。我々もそれを実現しようと思っているということです。
 そのときに、やはりどうしても限界が訪れる。時数も足りないし、いろいろ。そう考えていくと、結構重なりがある部分に気づいたんですよね。そこについて特設していこうということになっております。ちょっと予定外かもしれませんが、僕が持っている、方法かという話はあるんですけど、こういうイメージで思っていると言うと、これまでの授業の仕方というのが、さっきの奈須先生に対応して言うと、こういうような授業の仕方というのがあって、そういうところにICTを入れましょう、個別を入れましょう、協働を入れましょうと言うと、これは当然、授業は時間が長くなるんですよね。このときに大体、新たな加算や置き換えが行われて、効果的な方法という言い方をするんですよね。ICTの効果的な活用。一人一台端末の活用には合わない表現だと思います。つまり、効果的というのは、この青い線を変えずにそのまま、そのパーツ、パーツを効果的にしていこうという、こういうことなんですよね。
 今、春日井、富山で行われているのは、多分こういうふうにそもそも理念から落としていって、だから、僕はPBLとか自由進度学習とか、いろいろな言葉、イエナプランとかいろいろな言葉はあるけども、そういう言葉はなるべく使わないように、そもそも学習指導要領の理念から落としていったとき、たくさんの情報が教室の中に流通すると。その流出する情報をどうにかコンピューターを使って整理していこうみたいな、まずこういうような趣旨にあるということを冒頭に申し上げたいと思います。
 それで、天笠先生のおっしゃってくれたことは物すごく僕もすごく考えることで、実は、富山市のあの学校は、一瞬で変化したんです。ほぼ一瞬です。これまでオープンスペースって、そういうためにあったのかと分かっていなかった。校長先生も皆さん、おっしゃいます。春日井市みたいなあの教室で変化を起こすのは、秋田先生おっしゃるような特殊な技術が要ることもあります。だから、環境要因というのはとても大きいです。結局、教科の中の探究がすごい速さで終わるので、必要な時数は従来の授業と比較して、3分の2と半分ぐらいに実はなっているということになっています。そのために僕は、こういう特設な時間が欲しいと申し上げたように聞こえたと思うし、そう言ったと思うんですけど、だけど、情報活用能力という言葉かどうかというのは、実は僕はそんなに気にしていなくて。と言ったら、みんな、代表してやっているのに怒られちゃいますけど、要は、たくさん調べたり、まとめたり、伝えたりするような活動はどこの教科でも行われているので、そこだけきっちり共通に指導したほうがいいのではないのかというのが、まずそういう考えです。
 そうなってくると、このカリキュラム上、教育課程上、どうなっていくのかというのは、これは春日井でも週1時間というのは何が行われているかというと、スキルとか基礎的な知識・技能に関するごく基本的なことをそこの1時間でやっています。もう1時間なので、それしかできないですね。それを活用するものを教科の中でやっていると。だから、そういうことがうまくできるんだと僕は思っています。
 藤森先生の国語の資料を見ても、例えば1年生の情報と情報の関係は、この5ページの表を見ると、「情報と情報の関係」の1、2年生のところに、「共通と相違」と書いてあるじゃないですか。これは結局、3、4年生の比較と一緒なんですよね。比較というのは共通点と相違点をというふうに理科の指導要領に書かれているんです。それで、関連づけとか関係の表し方、その下にも書いてありますけど、これも比較して関係づけて、比較して表していくわけです。そして、中1にまた比較が出てくるんですよ。だから、この手の話がほとんどしっかり指導されていないので、同じ学習が繰り返されている。したがって、僕は特設の時間で整理してやったほうがいいのではないかということです。
 貞広先生が指導法を改善するとか、そういうふうなおっしゃり方もしますけど、やはり我々は、理念や概念、指導要領のところをやろうと思ったときに、そこに時間が足りないように感じているということですし、そういうことをやった学校では、市川先生のお話ですけど、やっぱりペーパーテストでは評価し切れなくなって、成果物の評価みたいになってきて、そういうことが中心的に行われています。そういうことをやってくださる、今回、春日井の卒業生の高校入試とかは大分、スッと行ったようで、手応えを感じています。だから、入試が駄目だからとかそういう学力を求められていないから、こういう指導はやらないとかではなくて、むしろこういうふうに具体の成果物を見せてって、こういう具体の成果物、あなたの入学試験で測定できるんですかぐらいのことを僕は訴えていく気持ちでいるということになります。
 最後に、前回に、荒瀬先生からの質問だったんですかね。何のソフトを使っているんですかという話があったんですけど、これはすごく極めて重要ですけど、この場で言うと問題が起こるので言いませんが、実はGIGAスクール構想の標準的なソフトウエアですけど、ほぼ、大学の教員もそういうコンピューターの使い方をしていないので、なかなかこの話は理解がしにくいんです。だから、GIGAの最新の環境を使ってみたら、かなり印象が変わりますので、それも最後に付け加えておきたいと思います。
 以上です。ありがとうございました。
【天笠座長】  どうもありがとうございました。
 ということで、そろそろ予定している時刻に迫ります。そろそろ最後にしたいと思いますけども、藤森先生から何かありますか。
【藤森氏】  では、ほんの1分程度。ありがとうございました。私も大変勉強になりました。高橋先生が今回お出しくださった春日井市の姿は、欧米ではよく見られる情景ですね。私はアメリカ、イギリスの学校を長年、回っているんですけど、ほぼこのような形でやっていますよね。(授業形態の問題は)先ほど秋田先生からの御質問にあった、日本語非母語者への対応ともかかわります。このような子供たちが一定数、今日の教室にいる環境を考えると、一斉授業の形式はもう限界に来ていると思っています。待っているのは高橋先生がお示ししてくださったような形式で、この問題は、情報活用能力という問題に回収されない、もっと大きな授業のあり方の構造改革になっていくんだろうなと思いました。
 ありがとうございました。
【天笠座長】  ということで、まだまだ続けたいところですけども、御案内のとおりということで、今日は、意見交換についてはここまでとさせていただきまして、本日の議事は以上ということにさせていただきたいと思います。
 次回以降の日程につきましては、事務局と相談の上、改めて御連絡させていただきます。ということで、今日はここまでということで、本日は以上をもちまして閉会とさせていただきます。どうもありがとうございました。
 
―― 了 ――
 
 

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)